〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/01/31 (火) 

シャファルニァ村への旅

1842年八月の夏休みにはジェヴァノフスキ家の招待で、その息子のドミニクとワルシャワから北西約150キロ離れているシャファルニァにある、領主館の別荘に行った。ドミニクは学校での親しい友人の一人でミコワイの寄宿生だった。ショパンにとっては、はじめての家族と離れての夏休みとなった。
シャファルニァ村への旅は、ショパンにとってジェラゾヴァ・ヴォラへの旅以上に大きな収穫となった。それまでにないほど伝統的な民族音楽に出会ったからだ。素朴でたくましい農民がつむぎ出す音楽は、何世代も歌い継がれてきたものだった。
ドミニクの叔母ルドヴィカ・ジェヴァノフスカの温かいもてなしを受けて、その楽しい日々の様子はワルシャワにいる家族たちに、 『シャファルニァ通信』 と名づけられた手紙に綴られた。その内容は、このころのショパンがユーモアにあふれて活発な少年で、さらに音楽に対して大変な関心を示すことも明らかにしてくれて、興味深い。
「八月十一日 フリデリック・ショパン氏は馬で競争することにした。途中何度か徒歩ノルドヴィカ・ジェヴァノフスカ嬢に追いつかれそうになりながら (これはショパン氏ではなく馬が悪いのです) 、どうにかルドヴィカ嬢がゴールしいうとする時、追いついて勝利を収めた」。
「八月十五日 シャファルニァで音楽の集いあり。数人の聴衆を前にカルクブレンナーのコンチェルトを披露。 《小さなユイダヤ人》 も演奏したがさしたる感銘をあたえなかった」。 《小さなユイダヤ人》 はマズルカだが、どの作品かは定かではない。 
この手紙から一週間ほどたつと、村の祭りを話題にしている。そこでショパンが聴いたものは、子供たちが張り上げる音痴な歌だった。 「城の前、池にはアヒル。奥様は着飾って。城の前、紐が張られて、殿様は大げさにごあいさつ。城の前、セルパン (コルネット属の低音管楽器) が掛かっている。マリネお嬢様は結婚。城の前、帽子が一つ。小間使いがぼうっとしている」。
さらに八月末の手紙では、村で聞こえて来た美しい歌に魅せられた様子も生き生きと書かれている。 「ピションぼっちゃまは (ピション Pichon はショパン Chpon のつづりをおどけて並び替えたもの) エニシャヴィアを通りかかると、柵に腰かけて声をはりあげて歌う村の 『カタラーニ』 に遭遇」。
村の娘のみずみずしい歌声に、ショパンは金時計を贈ってくれたイタリアの有名な歌姫、アンジェリカ・カタラーニを思い出したのだろう。
短い滞在の間にも、ショパンは村で聞こえる歌に鋭く反応し、乞われてはピアノを演奏していた。
このような楽しい夏の間には、ジェラゾヴァ・ヴォラを両親と訪ねたり、また貴族たちの別荘に招かれたりしている。その中には後にパリで親しい友人になるデルフィナ嬢が嫁いでいるポトツキ家もある。ショパンは馬に乗って野山を駆けめぐった。 「ぼくは勉強していません。でも音楽を楽しみ、絵を描いて、走りまわっています。家の中にいることは少ない」 と八月の半ば友人への手紙に書き、好奇心いっぱいの元気な少年ショパンの様子が目に浮かぶ。
演奏家としてはすでにワルシャワの貴族社会で有名な存在でも、日常生活では、即興劇や物まねに興じる愛すべき少年だった。
高等学校の二年生になると、ショパンは学校の正式なオルガニストになった。1852年ユゼフ・ドゥウゴシュが製作した新しい鍵盤楽器エオロパンタレオンを、音楽院でショパンは即興演奏した。さらにロシア皇帝アレクサンドルがポーランド国王として国会召集のためにワルシャワを公式訪問したさいに、プロテスタント教会での記念のコンサートで、アウグスト・ブルンネル製作のエオロメロディコンを演奏した。どちらの楽器とも現在のハルモニウムの原型ともいうべきものだったが、ペダル付きのふいごと鍵盤、ストップによって音色が変わった。教会オルガンをヴュルフェルに習っていたおかげで、ショパンならではの演奏の妙技を披露し、感動したロシア皇帝はショパンにダイアモンドの指輪を与えライプチッヒの音楽新聞は演奏を賞賛する批評を載せた。
ショパンはこの楽器のための作品を二曲作ったようだが、残念なことに残っていない。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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