〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/01/30 (月) 

エルスネルとの出会い

秋に高等学校に入ったので、家庭教師のバルチンスキとの勉強は終わった。父と彼のおかげで、ショパンは学業に困るどころか、ラテン語、ギリシャ語、数学、文学、科学もしっかりするように、という両親のアドヴァイスを守る優秀な生徒だった。物まねが上手で、カリカチュア (戯画・風刺画) で家族や友人たちを描いては、みんなを笑わせる人気者でもあった。
ミコワイの寄宿学校で得た友人には、後にショパンが婚約した、マリア・ヴォジンスカの兄たちもうあた。生涯の友だち、後に医者になるヤン・マトゥシンスキ、演奏家になるヤン・ビャウォブウォツキ、やはり音楽家になるユリアン・フォンタナ (1801〜1869) 、 この時代のもっとも重要な友ティトゥス・ヴォィチェホフスキらと出会ったのも、この頃だ。
ショパンの両親の教養と仕事の質の高さから、家庭は最高の文化的雰囲気に包まれていた。詩人や文化人たちが、ミコワイとの語らいを楽しみにショパン家の扉の前に立った。ショパン家のサロンで、ショパンはさまざまな学者たちに出会っている。前述したようにワルシャワ大学で数学を教えていたユリウシユ・コルベルクやカジミエシュ・ブロジンスキやフェリクス・ヤロツキがいた。ヤロツキはドイツで教育を受けた動物学者で、のちにショパンは彼に連れられて十八歳ではじめての外国であるベルリンへ行くことになる。
ワルシャワ高等学校の校長でポーランド語の研究者として名高いミヒャエル・リンデやワルシャワ高等学校校長のユゼフ・エルスネルの姿もその中にあった。
エルスネルはジヴニーやミコワイと同様にポーランド人ではない。1769年にどいつに生まれ、1799年にワルシャワニやって来た。多くのオペラを作り、そのほとんどがポーランド語を歌詞としたもので、ポーランドの作曲家としての名声を手のした。また、音楽教育にも力を注ぎ、1812年に音楽院院長、26年に高等音楽学校校長になった。
エルスネルも父ミコワイの友人として、幼いショパンの演奏を耳にするたびにその才能を認めていた。音楽学校でショパンを教える以前に、すでにショパンに作曲上の助言をし、十二歳の頃には音楽理論書を与えている。ショパンは高等音楽学校でピアノを教える、ヴィルヘルム・ヴァツワフ・ヴュルフェルからオルガンを習いはじめた。
ジヴニーと同じくエルスネルもヴェルフェルも、ショパンに演奏法を教えなかった。音楽の専門家たちがこぞって、ショパンにあえてピアノ奏法を指導しなかったということが、ショパンの演奏家としての生まれもった才能がいかに稀有なものであったかの証明となる。
エルスネルは、作曲法についてもショパンの才能を見守ることに徹していた。助言をしても、ショパンらしさを壊さないことに細心の注意を払っていた様子が、ことあるごとに見受けられる。
エルスネル自身は、ベートーヴェンから多大な影響を受け、独唱曲、教会カンタータ、宗教音楽のほか交響曲を作っていた。しかし自分の傾向にショパンを合わせようとはせず、厳格な古典的作曲法をショパンに教え込むともしなかった。
音楽学校で正式に指導する以前から、ショパン家でたびたびショパンの演奏を耳にしていたエルスネルは、その小さな手が作り出すポーランドの民族音楽を基盤にした独創性あふれる即興演奏に感嘆していた。だからこそ稀有な才能を、厳格な音楽理論で束縛して台なしにすることを恐れたのであろう。
エルスネル自身のポロネーズやマルズカといった民族音楽を題材にした作品に、幼いショパンは目を輝かせながら聴き入っていた。その理解力にもエルスネルは驚き、ショパンこそ自分たちポーランドの音楽家の最高峰に立つことが出来ると確信していたにちがいない。エルスネルはショパンの才能を温かく見守り、その指導のもとで、1822年には嬰ト短調の 《ポロネーズ》 が作られた。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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