〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/01/29 (日) 

幼き演奏家
1818年二月二十四日、 フィリデリックは 「貧しい人たちのための」 慈善演奏会に出た。場所はラジヴィヴ宮殿内の劇場で、イーロヴェツのピアノ協奏曲を演奏した。たいへんな評判をとったが、病気だった母は聴くことが出来なかったために、息子にそのときの様子をたずねた。聴衆の反応についてショパンは 「イギリス製の襟の評判がよかったよ」 と答えた。後年になっても、ショパンは服装についても細心の注意を払いながら、自らの才能の評価にはひかえめだった。
この頃のワルシャワは、政治的には列国の支配下におかれながらも、芸術を愛し文化を大切にする気風がみなぎっていた。
ショパンの才能を賞賛した貴族たちの中には、彼ら自身、音楽に稀有な才能を示す人たちもいた。とくにラジヴィウ家の人々がそうで、アントニ・ラジヴィウ公自身チェロや作曲を楽しみ、自らの演奏でサロンに集う人々の注目を集めていた。
八歳でそのラジヴィブ公の前で演奏したショパンは、その後もあちこちの貴族の館から乞われて演奏を重ねてゆく。ショパンの父ミコワイは、息子が教養の高い人々に称賛されることは喜んでいた。ワルシャワの知識階級を率いる一人である父は、子供の時代は、教養豊かなバランスのとれた人間に育つための、基礎を養うべきであると考えていた。息子がいくら音楽に才能を示そうとも、音楽だけをしていればいいという考えなど持たなかった。神童ではないかと人々が噂することは喜んだとしても、モーツァルトの父のように、それを糧にするつもりもその必要もまったくなかった。
ラジヴィウ宮殿の演奏会で、ショパンはワルシャワの貴族社会から注目されるようになった。ベルヴェデル宮殿、アレクサンドル一世の弟でポーランド軍総司令官のコンスタンティン大公のもとにも招かれた。大公は日曜日ごとに馬車で迎えに行かせるほど、ショパンに夢中になった。
金時計を贈られた
ショパンの演奏家として作曲家としての名声はますます高まり、1820年の一月三日ソプラノのアンジェリカ・カタラーニはショパンの演奏に魅せられて、金時計を贈ってその才能を祝福した。いっぽうショパンはカタラーニのソプラノに感動し、それがのちのピアノ曲の声楽的要素にも生かされることとなった。
マリア・シマノフスカ、ユゼフ・エルスネル (1769〜1854) とカルロ・クルピンスキらが活躍したこの時代、ポーランド芸術はほかのヨーロッパ諸国と同様にロマンティシズムを感じさせるものが多くなり、華やかで表情豊かなものを聴衆は求めた。ポーランド人以外のものとしては、フルメル・カルブレンナー、ウェーバーの作品が好まれた。
十一歳になったショパンもジヴニーの誕生日のためにヴィルトゥオーソ的な作品変イ長調の《ポロネーズ》を作った。
ミコワイはバルチンスキとともにショパンの教育に余念がなかった。1823年九月に高等学校の四年生の試験に合格させようと考えていたのだ。この間もショパンは作曲に即興演奏にと、ますますその才能を発揮していた。この年は二つの慈善演奏会に参加し、フェルディナント・リースのピアノ協奏曲を演奏した。ショパンはこの曲に対する独自の解釈を示し、その生き生きとした演奏に聴衆はすっかり魅せられ、喝采かっさい を送った。
夏になると、ワルシャワに引っ越してジェラゾヴァ・ヴォラに戻った。ルドヴィカ・スカルベク伯爵夫人がピアノを庭にある無花果いちじく の木の下に出させ、ショパンはすばらしい即興演奏を聞かせたといわれている。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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