〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/01/29 (日) 

先生ジヴニー
ショパンは四歳の頃から母や幼い姉を先生にピアノを弾いていたが、六歳の頃には即興に才能を示すようになり、そこでヴォイチェフ・ジヴニー (1756〜1842) が先生としてショパン家に通って来ることになた。
ジヴニーは背が高く、髪はぼさぼさで、歯が欠けていた。いかにもスラヴ人らしい土臭い服装で、それも時代遅れの十八世紀の雰囲気だった。長い緑色のフロックコート、房飾りのついたひざまであるブーツ、ベルベットの短い上着を欠かさなかった。手にはいつもタバコで、教えることに夢中になると、たばこの灰に
気づかないために、服に焼け焦げを作ることもあった。
ジヴニーはヴィルトゥオーソの演奏家ではなかったが、先生としての能力は非常に高かった。ショパンはジヴニーからモーツァルト、バッハ、ハイドン、フンメルを学んだが、才能に恵まれていたので演奏法の指導を受けることはなかった。
ショパンが受けた教育
1810年からの七年間は、ショパン一家はサスキ宮殿の住居部分である右翼に住んでいた。そこにはワルシャワ高等学校も入っていて、ミコワイはそこで教えるかたわら、生徒の中の数人を自宅に住まわせる寄宿学校を始めた。
1817年三月、一家は高等学校とともにカジミエシュ宮殿に移った。前の住まいよりも広く、六、七人の寄宿生を入れることが出来るようになり、ミコワイの副収入が増えた。この寄宿学校はたいへんな評判となった。寄宿料はけっして安くなかったが、清潔で食事がよく、温かく知的な指導は効果的で、上流階級の子弟にふさわしい礼儀作法を教え、洗練された話し方とふるまいを少年たちは身につけた。
寄宿生たちは、ミコワイとその手伝いをするワルシャワ大学の学生バルチンスキから指導を受けるばかりでなく、同じ宮殿に住む文化人たちからの知的刺激を受けることが出来た。二階には高等学校の校長のサムエル・リンデやワルシャワ大学教授コルベクス一家が住んでいて、親しく行き来をした。
ミコワイはショパンを高等学校になかなか入学させなかった。というのは、基本的学習が足りないと考えていたからだ。しかし、それがショパンの音楽的才能に幸運となった。八歳から十三歳までの五年ほどミコワイとバルチンスキによる家庭教育は続き、その間、ショパンは学校の時間に拘束されることなく、毎日自由にピアノを練習し即興演奏していた。
このような環境の中で、ショパンは最初の作品、ト短調の 《ポロネーズ》 を作曲した。これはフデリック・スカルベク の援助で1817年自費出版され、批評雑誌でとりあげられた。ポーランド民族音楽の作曲家は、弱冠七歳でいながら、すでに真の天才だと絶賛された。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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