〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/01/28 (土) 

ショパンの両親とショパンの誕生
ショパンの父ミコワイ・ショパン (1771〜1884) がポーランドの地を踏んだのは十六歳のことだった。
生まれはフランス、ロレーヌ地方のマランヴィルだった。
農民出身ともいえる環境のもとで、ミコワイは当時にしては例外的に読み書きが出来る賢い少年であった。
その才覚は、この地の管理者として赴任していたポーランド役人ヤン・アダム・ヴェイドリヒの目にもとまり、1787年、ヴェイドリヒが帰任する際には、ともにポーランドへ行くことを勧められるほどであった。
十九歳になると、フランス人として兵役の迫っていることを気にして、両親に手紙を書いた。そこにはヴェイドリヒが自分を大切にしてくれたことを考えると、その気持を振り切ってまで兵役のために祖国に帰ることは出来ないとある。
両親からの返事はなかった。失望しながらも、六年の月日がたつとポーランドでの生活に強い愛着を抱くようになり、列強三国ロシア、オーストリア、プロシアない立ち向かうコシチウシュコに率いられ籬解放軍の士官となった。半年に及ぶ闘いが惨敗に終わると病に倒れ、フランスに帰る機会を逸してしまった。
ミコワイは兵士をやめた後、フランス語を生かした仕事についた。ヴェイドリヒの後ろ盾もあったので、美しいフランス語を話しフランス文学への教養があるミコワイは、ワルシャワの名家として名高いロンチンスカ伯爵夫人宅に家庭教師として住み込むことになった。その子供の一人に、後のワレフスカヤ夫人となり、ナポレオン一世の愛人となって歴史にその名を残す幼いマリアがいた。ここに職を得たことで、フランス語教師としてのミコワイの名が社交界に広まっていった。
しかし、ミコワイが家庭教師の職を得た貴族の家庭がかならずしも裕福とは限らなかった。貧しい農村地帯に領地を構えるだけで収入の道がなく、貴族とは名ばかりの生活を強いられている者も少なくなかった。1802年にミコワイが家庭教師として入ったスカルベク家は、そのよな貴族のひとつだった。スカルベク伯爵は、債権者の取り立てから逃れるために故郷を去ってしまい、夫と別れたスカルベク伯爵夫人が、子供たちとともにジェラゾヴァ・ヴォラに残っていた。彼らの屋敷はこぎれいとはいえ、いわば領主館で、それに離れがついたていどの規模しかなかった。
ミコワイはこの屋敷でユスティナ・クシジャノフスカヤ (1782〜1861) と出会った。ユスティナは貴族の家柄の出だったが没落し、遠縁のスカルベク家に住み込み、夫人の身のまわりの世話と家事の手助けをしていた。
ジェラゾヴァ・ヴォラ近くのプロフフ村の聖ロフ教会に残る記録によると、三十五歳のミコワイと二十四歳のユスティナは1806年6月2日に結婚式を挙げた。ナポレオン軍の侵攻を避けて、スカルベク家は一時、ワルシャワに移り住むことになり、ミコワイたちもそれにつき従った。1807年4月に長女ルドヴィカが生まれ、ふららびジェラゾヴァ・ヴォラの戻り、1810年3月1日に、フリデリック (フリデリック・フランチシェク・ショパン) が生まれた。聖ロフ教会に残る洗礼簿によると、ショパンの誕生日二月二十二日となっているが、ショパン自信は三月一日が正しいとしている。名付け親のフリデリック・スカルベクにちなんで、フリデリックと命名された。このフリデリック・スカルペクはのちに学者になり、ショパンについて信頼すべき記録も書き残している。
文化的家庭環境
ショパンの生後七ヶ月たった1810年9月に、父ミコワイはワルシャワに新しく作られた高等学校のフランス文学とフランス語の教授の地位を得た。一家はジェラゾヴァ・ヴォラを離れ、ワルシャワに引っ越し、サスキ宮殿の右翼に住むことになった。
ミコワイは、フランス語教師としての才能があり理性的だった。フルートとヴァイオリンをたしなんだが、とりわけ芸術的才能があったわけではないようだ。
一方、母ユスティナは優しく、家庭的で母性愛に満ちていた。ユスティナは子守歌としてポーランド民謡を歌い、そのためショパンは生まれもってポーランド民俗音楽に慣れ親しむことになった。幼かった冬の夜、通りがかりの宿屋からマルズカとオベレクの力強い音楽が聞こえてきた。ショパンは吸い寄せられるように窓辺に近づいていったといわれている。
ショパンと三人の姉妹たちは、両親の才能をそれぞれが受け継いでいた。姉ルドヴィカはショパンに似て音楽に才能があり、幼い二人は連弾をしては両親を喜ばせていた。ショパンとルドヴィカは晩年までずっと精神的に強い絆で結ばれている。
妹のイザベラは音楽よりも文学に興味を持っていた。エミリアは、詩の才能があった。
ショパンは一人だけの男の子として父親の期待と誇りを受けて、幼い頃からとりわけ細心の注意をもって育てられた。のびのびと、しかしそれでいて必要な教育をあますことなく与えられていた。ピアノと声楽の上手な母、文学に造詣の深い父、そのような両親が作る芸術的文化的雰囲気にあふれる家庭で、ショパンは生来の音楽はもちろん、絵画の才能にも恵まれた子供として育っていった。
命名の日や誕生日はショパン家にとってとても大切で、このような時には、子供たちは一人ずつ、あるいは三人で祝いのカードを書いた。ショパン1816年十二月六日、父の命名日に贈ったものが残っている。美しい六行の詩が連なる。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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