〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/12/14 (水) 

わか   ・下 (四)
「若菜」 がこれまでの各帖と明らかに違っているのは、全篇に漂う、暗さと重さであり、文章では、目立って会話が長くなっている点であろう。
源氏は特によく喋る。自分の心情を説明し、紫の上に言い訳する時とか、過去の女たちの品定めをして聞かせる時とかに特に会話は長くなる。会話が長い文、源氏の心情がよく読者に伝わってくる。
登場人物は各人、重い運命をかかえこんでいて、皆悩み苦しんでいる。明るく幸せな一家は髭黒の右大臣のところだけである。
明石の女御が特別に幸運だが、その陰には明石に入道の悲痛な犠牲があり、夫と生き別れしなければならばい妻の尼君の悲しさがある。
明石の君は娘の栄達に伴い幸運の人と見えるが、ついに源氏の心を独り占めには出来ず、自ら卑下し願望を押しつつみ、紫の上の下位に自分をおとしめることによって平穏を保つのである。プライドの高い明石の君はこの忍従を、理性では自認しながらも、感情では決して認めてはいないだろう。
紫の上はこれから源氏と二人して、ようやく穏やかな余生を楽しもうと思っていた矢先にその夢が破られ、全く予期しなかった女三の宮の降嫁という事件で、源氏への不審を抜きがたいものにする。
くり返し源氏に懇望する出家への願いは、紫の上の心の底からの切ない叫びである。それすら源氏は自分の願望のため許さない。
出家者は性行を絶たなければならにという仏教の戒律が、この時代はまだ厳然と生きていたからである。
幼い時から源氏に育てられ、共に一つ家に暮してきた紫の上は、何一つ源氏の許可なくしては行動することが出来なかった。
「若菜」 上、下の帖で繰り返し出家の許可を源氏に請う紫の上の深い心の闇を見逃すことは出来ない。
紫の上の病気は、女三の宮の降嫁によって生じた。感情と理性の凄絶な相剋が原因になっている。
北山の庵で、末広がりの髪を肩になびかせ、 「雀の子を犬君いぬき が逃がしてしまったの」 と言って泣きながら走り出てきた無邪気で活力に満ちた女の子が、三十年近い歳月の後には、こんな不幸な女になろうとは誰に想像が出来ただろう。おそらく作者の紫式部自身さえ予期しなかった紫の上の運命ではなかっただろうか。
最愛の紫の上にこの不幸を与えたのは女三の宮の降嫁であり、源氏はこれを断ることが出来たはず であった。断りきれなかったのは、朱雀院の懇願のせいではなく、女三の宮が藤壺の妹の娘という点にある。あの恋しい藤壺の兄の娘が紫の上で、藤壺のおもかげ をよく伝えていたからこそ源氏が一目で惹かれたことを忘れてはならない。同じ藤壺の姪なら、女三の宮も藤壺の俤を伝えているのではないかという興味と好奇心、それにもはや四十を越える源氏にとっては女三の宮の十三、四という若さもまた好色すき 心をそそのかされる要因になっていた筈である。つまり源氏は朱雀院の頼みに負けたふりをして、自分の好色心を満足させたかったのだ。聡明な紫の上はそれさえも見抜いていただろう。
紫の上の悲劇は、源氏との結婚が略奪結婚で、正式の所顕ところあらわ しをして社会的に認められていないという引け目にある。正妻同様の扱いを受けつづけ、それに引け目を感じることのなかった紫の上は、女三の宮の降嫁という現実の前に、自分の不安定な立場を痛感させられる。
この紫の上の晩年の悲劇は、朱雀院の親心の闇から生じたものである。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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