〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/12/15 (木) 

わか   ・下 (五)

女三の宮の婿選びに迷い抜く朱雀院の優柔不断さに苛々させられるが、まさか最終的に源氏が選ばれようとは読者には想像できない。
朱雀院と朧月夜と源氏の三角関係の深刻さを知っている読者には、最愛に娘を、煮え湯を呑まされた恋仇に託すという朱雀院の神経が理解出来ない。常に源氏に対して負け犬の立場にあった朱雀院が、ここに来て女三の宮の婿として、父のような源氏を、しかもその好色多情さを、厭というほど知らされている源氏を選ぶとは。この選択の誤りを朱雀院は間もなく思い知らされるが、はからずも女三の宮と柏木の密通という事件で、源氏に手ひどい打撃を与えた結果を見れば、朱雀院は全く図らざる復讐をここで源氏にとげたという皮肉な結果にならないだろうか。
どんな目に遭わされても、朱雀院はこの異腹の弟源氏を嫌いになれない。自分が女なら、たとい姉弟でも女として愛されたかっただろうという述懐も普通ではない。
出家をしてもまだ、娘たちとの別れに未練があり、女三の宮に逢いたいという恩愛の情を捨てきれない、あまりに人間的弱さを持った朱雀院が 「若菜」 になると、一種無気味な存在感を持って迫って来る。
「若菜」 に起こる人々の悲劇のかなめ は、朱雀院の並外れた心の弱さと恩愛への執着にある。
柏木の悲恋は、すでに源氏に失われてしまった若さのもたらしたもので、青春のみが持つ打算のない純情と一途さとエネルギーによる。
地位も命も捨てる恋に殉じる柏木は、痛ましいけれど、同情を誘う。
密通を知った後の源氏の残酷な意地悪は、若い二人にとっては耐え難い痛手であった。
源氏は自分がコキュびされてはじめて、昔父帝を裏切った自分の罪に思いをはせ、桐壺帝はすべてを知っていたのではないかと思う。その場面は重要で印象的である。果たして桐壺帝は藤壺と源氏の不倫の恋を承知しながら、源氏の不義の子を、自分の子として抱いたのであろうか。これは読者に永遠に投げかけられた謎であろう。
「若菜」 の無類の面白さは、人物の一人一人の複雑な心理描写の克明さによる。
たとえば、女三の宮のように、ひたすら幼稚だと描きつづけられて来た人物が、密事のあと、源氏が訪れた時、無意識の媚態を示して、帰る源氏を引き止めようとして歌を詠む。源氏はいとしさの余り、病床の紫の上に心はやりながらも、その場に膝をついてしまい、もう一晩泊まってしまう。
女三の宮としては密事の露見の恐ろしさに、一刻も早く源氏に引きあげてほしいのに、思わず引き止めるような歌を詠みかけてしまう。決して打算ではないが、女の本能の自衛心のあらわれだと見ていいだろう。すでに源氏以外の男の情熱を、肌にも心にも受けてしまった女三の宮の、女としての成長をそこに見る。
しかもその夜の源氏との濃密な性愛の疲れに、翌朝の女三の宮は、源氏が寝床を抜けて一刻も早く紫の上の許に帰ろうとしたことも気づかない。紫式部は性愛の場面にあたっては、極力筆に抑制を加えているようだが、さりげないそうした描写にかくされているエロティシズムは見逃せない。
柏木と女三の宮を取り持つ小侍従の個性的な性格や、言動も面白い。柏木にも、女三の宮にさえも、小侍従は遠慮のない辛辣な口をきく。柏木も女三の宮も小侍従にこてんぱにやりこめられ、馬鹿にされる。この浅はかでおっちょこちょいの小侍従がいなければ、二人の悲劇は起こらなかったことを思えば、紫式部の脇役わきやく 設定の用意周到さに、改めて驚かされるのである。
また、まだちらりとしか出て来ない落葉の宮も、先ゆき彼女の存在の重要さを充分匂わせている。
出家を切に願う紫の上が、源氏に許可されずやがて心でゆく痛ましさは見逃せない。その一方、あの官能的で自由な朧月夜が、三十年近くつづいた源氏との情事を捨てて、さらりと出家してしまったさわ やかさは、何と見事であろう。しかも源氏に対しての皮肉で冷たい応答の小気味好さ。
もっともっと、将来に波乱が起り、悲劇と破局があることを予想させて、 「若菜」 は意味ありげに幕を閉じるのである。
近代小説を読むような心理描写こそ、この帖の特筆すべき点であろう。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ