〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/25 (水) 

若 菜 ・下 (四十)

「いかにも子供っぽい頼りないあなたのご気性をよく御存知だからこそ、こんなにひどく御心配遊ばしていらっしゃるのだと、わたしにはそのお気持がよく理解出来ます。これから後も、ほんとうに万事にお気をつけにならないといけません。こんなことまではなるべく申し上げたくはないのですが、朱雀院が、わたしの悪い噂をお耳にされ、お心にそむいてけしからぬとお思いになっていらしゃるのが、気づまりであまり心苦しいので、せめてあなたにだけでも聞いていただきたいのです。思慮が浅く、ただ誰かの言葉をそのまま信じて、そちらへなび いておしまいになるようなあなたのお心では、わたしの言うことなどは、ただ馬鹿らしく浅はかだとばかりお考えになり、また、今はすっかり年寄る臭くなったわたしの容姿なども、軽蔑したく、古臭くばかりお思いになっていらしゃるらしいのも、何かにつけ口惜しくも情けなくも思われますが、せめて朱雀院の御在世中だけでも、やはり辛抱なさって下さい。朱雀院がわたしをあなたの夫とお決めになられたのは、何かそれなりのお考えがあってのことでしょうから、この老人を、誰かと同じ程度に御覧になって、あまりひどく軽蔑なさらないように。昔から深く志していた出家の道にも、それほど熱心に考えていたことも思えない女君たちにさえ、皆先を越されてしまって、我ながら実に煮えきらない歯がゆいことが多いのですが、わたし自身の気持としては、出家に何のためらいも迷いもあるはずがないのです。しかし朱雀院がいよいよ御出家遊ばされた時、後に遺された御後見として、わたしをお定めになった御心情が、身にしみて嬉しかったものですから、ひき続いて朱雀院と競争のように、わたしまでもがまた出家して同じようにあなたをお見捨てしましたら、朱雀院がどんなにがっかりなさるだろうと、遠慮して、出家を思いとどまっているのです。わたしの出家のはだ しになった人々も、今ではもう誰も出家の邪魔になる人はいなくなりました。明石の女御も、将来のことは分かりませんが、こうして御子たちが次第に多くなられたことですから、わたしの生存中だけでも御無事だったら、まあ安心していいでしょう。そのほかの人々は、誰もみんな、それぞれの事情に従って、わたしと一緒に出家しても、悔いのなさそうな年齢になりましたので、ようやく身が軽くさっぱりした気持になってきました。朱雀院の御寿命もこの先そうお長くはないことでしょう。近頃はますます御病気が重くおなりのようで何となく心細そうにばかりしていらっしゃいますのに、今さら心外なあなたの妙な噂をお耳に入れて、ご心配をおかけなさらないように。この現世のことは大してどういうこともないのです。何の気がかりもありません。来世の御成仏の妨げをなさいましたら、その罪こそたいそうおそろしいでしょう」
などと、例の一件は、はっきりとおっしゃらないけれど、しみじみとお話になります。女三の宮は涙ばかりこぼしながら、正体もない御様子で、悲しみにうちひしがれていらっしゃいます。源氏の院もお泣きになりながら、
「年寄りのおせっかいというものは、若い時は他人事に聞いてもじれったく感じたのに、今はわたしがそれを言うようになってしまいまって、何といやなじじい かと、さぞうっとおしく煩わしいやつ めと、ますますお嫌いのことでしょうな」
と、ひけ目を感じて自嘲なさりながら、御すずり を引き寄せて、御自分で墨を磨り、紙を用意して、お返事をお書かせになります。
女三の宮は筆を持つ手もわなわなと震えて、お書きになることが出来ません。
「あのこまごまと書いてあった衛門の督の手紙の返事は、全くこんなふうに遠慮したりせず、さぞかし進んでやりとりなさったのだろう」
と推量なさると、ひどく憎らしくなって、可哀そうだという気持も何もすかり消えてしまいそうですが、それでも言葉など教えて書かせておあげになります。
御賀のため女三の宮が参上なさることは、この月もこうして過ぎ、間に合いませんでした。落葉の宮が、格別の御威勢で参上なさったのに、 けやつれた妊娠中のお体で、競い合うように参上するのも、気の引ける思いがしたのでした。
「十一月は、桐壺院の忌月きづき に当たります。年末はまた、何かとたいそう忙しいことでしょう。それにますます御懐妊のお姿も見苦しくなり、お待ちかねの朱雀院にそれをお目にかけることになろうかと思いますが、そうかといって、そうそう延期ばかりもしていられません。面倒に考えてくよくよなさらず、明るく気持を持ち直して、そんなにひど面やつれしたお顔を、お化粧なさい」
など、さすがにやはり可愛いとお思いになるのでした。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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