〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/23 (月) 

若 菜 ・下 (三十七)
今では二条にいらっしゃる尚侍ないしのかみ朧月夜おぼろづきよ の君のことは、まだ絶えずお思い出しになっていらっしゃいますけれど、こうした後ろ暗い筋合いの恋は、女三の宮の過ち以来、つくづくいと わしいものとお悟りになって、朧月夜の君の靡きやすい意志の弱さも、少しおさげす みになるお気持なのでした。
その朧月夜の君が、とうとう宿願の出家を遂げられた、とお聞きになられて、まりにも悲しく名残惜しくて、お心が動揺なさいまして、早速さっそく お見舞いのお手紙をさしあげます。今から出家するということさえ、ほのめかしても下さらなかった冷淡さをひとかたならずお恨みになります。
あまの世を よそに聞かめや 須磨すま の浦に 藻塩もしほ 垂れしも 誰ならなくに
(あなたの尼になられたことを どうして他人事ひとごと と聞かれよう あの須磨の浦に海人あま のように わびしく流浪の日を送ったのも そもそも誰のせいだったことか)
「さまざまな人の世の無常を、心にあれこれ思いつめていながら、今まで出家が出来ずにいて、あなたにこうして先を越されてしまったのは残念なことです。もうわたしをすっかりお見捨てになったとしても、あなたの必ずなさるはずの毎日の御回向の中には、まずこのわたしを第一に祈って下さることでしょうと、感無量でございます」
などと、こまごまとお書きになりました。
朧月夜の君は、内心、ずっと前から思い立たれていた出家でしたけれど、源氏の院が何かとおひきとめなさるのに邪魔されて、のびのびになっていたのでした。人にはそうとあからさまにはおっしゃれることではありませんけれど、お心の内では感慨無量で、昔から、辛いことの多かった二人の恋とはいいながら、さすがに浅い因縁だったとは考えられないので、あれやこれやとお思い出しにならずにはいられません。
お返事も、これからはもうこんなふうにやりとりは出来ない、最後のお手紙とお考えになりますので、胸にこみあげてくるものがあり、心を込めてお書きになります。その墨つきなども、とりわけ見事でした。
「世の中の無常だということは、わたし一人だけが思い知っていたと感じていましたのに、取り残されたとあなたが仰せになりますとは。たしか、そういえば」
あま船に いかがは思ひ おくれけむ 明石の浦に いさりせし君
(わたしの出家の舟にそうして 乗り遅れられたのでしょう はるばる明石の浦で 海人あま と同じように お暮しになったあなたが)
「回向をとおっしゃいますが、一切衆生のためにする回向ですもの、どうしてその中の一人としてあなたもお入れしないことがあるでしょう」
とあります。濃い青鈍あおにび 色の紙で、しきみ にさしてあります。そうするのはいつもの趣向ながら、たいそうしゃれた筆づかいは、昔に変わらずいかにも趣があります。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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