〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/20 (金) 

若 菜 ・下 (三十二)
女三の宮は良心の呵責かしゃく に責められて、源氏の院にお目にかかるのも恥ずかしく気のひける思いでいらっしゃるので、源氏の院が何かとお話しかけになるのにお返辞も申し上げられません。長い御無沙汰ぶさた を、源氏の院は、表面はさり気なくしていらっしゃるものの、さすがに恨んでいらっしゃったのだろうとお心がちがめて、何かと御機嫌をお取りになっていらっしゃいます。年輩の女房をお呼びになって、女三の宮の御容態などをお尋ねになります。
「普通の御病気とは御様子がちがうようでございます」
と、女房は御懐妊らしいと申し上げます。源氏の院は、
「おかしいね。ずいぶん年がたって、今頃そんな珍しいことがあるとは」
とだけおっしゃって、お心のうちでは、長年連れ添われた方々でさえ、そうしたことはなかったのだから、ひょっとしたら思い違いで、妊娠ではないのかも知れないとお思いになりましたので、取り立ててそれについては、あれこれとお話し合いはなさいません。ただ、女三の宮の御病気の御様子がいかにも痛々しいのを、いとしく、お可哀そうにお感じになります。
ようよう思い立って六条の院に起こしになりましたので、すぐにはお帰りにもなれず、二、三日御滞在なさいます間も、紫の上の御容態はどうだろうかと、ご心配でならず、お手紙ばかりを。つぎつぎとお書きになります。
「いつの間に、あんなにお書きになることがたまるのでしょうね。まったくこれではこちらの宮さまとの御夫婦関仲が心配でなりませんわね」
と、女三の宮の過失を何も知らない女房たちは、話し合っています。
小侍従だけは、こうした状態につけても、不安で胸騒ぎがするのでした。
柏木の衛門の督も、源氏の院がこうして六条の院に起こしになられたと聞くにつけ、自分の立場もわきまえず逆恨みして、嫉妬でやきもきして、大層な恨みの数々をお手紙に書き続けて、小侍従に寄こしました。
東のたい に源氏の院がちょっと行かれた隙に、ちょうどお側に人気ひとけ がなかったので、小侍従はしのび寄ってその手紙を女三の宮にこっそりお見せしました。女三の宮は、
「そんな煩わしいものを見せるなんて、ほんとうにひどい人ね。ただでさえ気分がとても悪いのに」
とおっしゃって、目もくれないで横におなりなので、
「でもまあ、このお手紙の端の方に書いてあるところだけは、御覧になってあげて下さい。とてもお可哀そうに書いてございますよ」
といって、手紙を広げたところへ、ほかの女房が来ましたので小侍従は処置に困りきって、あわてて御几帳きちょう を引き寄せてそれを隠して行ってしまいました。
女三の宮は手紙を御覧になると、いっそうどきどきして胸がつぶれるような思いでいらっしゃいます。そこへ源氏の院が入っていらっしゃいましたので、とっさに手紙を手際よく隠すことも出来なくて、あわてておしとね の下にさしこまれました。
その夜のうちに、二条の院へお帰りになろうとして、源氏の院は女三の宮にお暇乞いとまご いの御挨拶をなさいます。
「こちらは御病気も大したことはなさそうですし、まだあちらはほんとうにどうなるか分からない不安な様態でしたから、それを見捨てたように思われるのも、今更可哀そうなのです。わたしのことを色々悪しざまにいう人があったとしても、決してお気になさらないように。そのうち、きっとわたしの本心はお分かりいただけることでしょう」
とお話になります。いつもは、なんとなく子供っぽい冗談などおっしゃって、無邪気にお打ちとけになりますのに、今日はひどくしんにり沈みこんで、まともにお目をお合わせしようともなさいませんので、源氏の院は、やはり自分と紫の上の仲を嫉妬して、すねていらっしゃるのだろうとお思いになります。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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