〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/18 (水) 

若 菜 ・下 (三十一)

女三の宮は、あの信じられないような忌まわしい出来事を苦に悩まれて、悲しさのあまり、そのままお体の具合がいつもとお変わりになって御病気になられました。大した病状ではなくて、月が改まり、五月になって以来、お食事も進まず、たいそう青ざめてやつれていらっしゃいます。
あの衛門の督は、女三の宮への恋の思いに堪えかねてたまらない折々には、夢のようにはかない逢瀬を重ねていましたが、女三の宮は、どこまでも無体なことといや がっていらっしゃいます。日頃、源氏の院をひどく怖がっていらしゃる宮のお目からは、衛門の督の容姿も人品も源氏の院とはとうてい比べものになりません。
衛門の督はたいそう上品で優雅なので、世間の人の目からは、並一通りの男よりは秀れているように認められもしましょうが、幼い頃から、あのようなたぐ い稀な源氏の院のお姿を見馴れていらっしゃった女三の宮にとっては、ただ不愉快にお感じになるばかりでした。それなのに衛門の督のたね を宿しておしまいになり、ずっと悪阻つわり でお悩みでいらっしゃるのは、何というおいたわしい宿縁なのでしょう。乳母めのと たちは御懐妊に気づいて、源氏の院のお越しになるのも、ほんの稀でしかないのにと、びつびつ言ってお恨み申し上げています。
女三の宮がそんなふうに患っていらっしゃられると聞かれて、源氏の院は、六条の院にお出かけになることになさいました。
紫の上は暑くうっとおしいからと、おぐし を洗って、 ざっぱりしたすがすがしい表情でいらっしゃいます。横になられたまま広げた洗い髪はすぐには乾きません。お髪はほんの少しの癖も、毛筋の乱れもなくて、この上なく美しく、ゆらゆらと漂っています。病人らしくお顔が青く病みやつれていらっしゃるのが、かえって、蒼白に透き通りように見えるお肌つきなど、世にまたとないほど痛々しく可憐で、いたわってあげたいように見えます。もぬけた虫の殻などのよう7に、まだとてもはかなさそうな感じでいらっしゃいます。
長年お住みにならなかったので、少し荒れている二条の院の内は、妙に手狭に感じられます。昨日今日は、こうして御気分がはっきりしていらっしゃいますのでで、その間にと、念入りに手入れなさった遣水や、前庭の植え込みが、にわかに気持ちよさそうに爽やかになったのにお目をとめられて、紫の上は、よくまあこれまで命永らえたものよとしみじみお思いになります。
池はたいそう涼しそうに、蓮の花が一面に咲いていて、葉は鮮やかに青々と広がり、その上に露がきらきらと玉のように光っているのを、源氏の院が、
「あれを御覧なさい。蓮がさも自分だけ涼しそうではありませんか」
とおっしゃいますと、紫の上は起き上がってそれを御覧になります。そんなことは最近全くないことなので、
「こうしてここまで くなられたお姿を拝見出来るのは、夢のような気がしますよ。あまり重態で悲しさに、わたしまでが、もう死ぬかと思われる時が、幾度もあったのですから」
と、目に一杯涙を浮かべておっしゃいますと、紫の上は御自分も胸が一杯になられて、

消えとまる ほどやは べき たまさかに はちす の露の かかるばかりを
(露が消えずに残っている 束の間ほどこれから わたしは生きられるのかしら 蓮の露が消え残っている たまたまそれだけの命なのに)
とおっしゃいます。
契りおかむ この世ならでも 蓮葉はちすば に 玉ゐる露の 心へだつな
(お約束しておきましょう この世だけでなく来世も 極楽の同じ蓮の上に置く 露の玉のように 心の隔てがほんの少しもないように)
源氏の院は女三の宮のもとにお出かけになるのは気が進みませんけれど、帝や朱雀院がどうお思いになるかと、その手前もあり、女三の宮が御病気だと聞いてからも、もう何日も過ぎているのに、お側の紫の上の御病気に心痛して途方に暮れていた間に、女三の宮のお見舞いはすっかり怠っていました。こうした紫の上の御様態の少しいい晴れ間にさえ、こちらに引き籠りつづけているものもと思い立って、六条の院にお出かけになりました。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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