〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/18 (水) 

若 菜 ・下 (三十)

こうして紫の上が蘇生そせい なさった後も、源氏の院はかえって恐ろしくお思いになり、またまた大層な御祈祷の数々を、ほかに幾つもなさった上、更に新たに御祈祷をお加えになります。御在世の時でさえ、生霊いきりょう になって現れるなど、不気味なところのあった御息所なのに、まして今ではあの世で魔界に堕ち、恐ろしく不気味な姿になっていらっしゃるだろうと御想像なさると、たまらなく情けないので、秋好む中宮をお世話申し上げることまでも、この際には心が重くいと わしくなるのでした。せん じつめれば、女というものは、結局皆同じ深い罪障の元になるものだと思われ、男女の間のすべてのことに厭気がさすのでした。あの、ほかに聞く人もいなかった紫の上との寝物語に、御息所のことを少しだけ話したことを、物の怪があんなふうに言ったところをみると、やはり御息所の霊に違いないと思われるので、いっそうわずらわしくお思いになります。
紫の上が御落飾なさりたいと、しきりにお望みになりますので、受戒の功徳によって御病気の御平癒もあるだろうかと、おつむりいただき に形ばかり、ちょっとはさみ を入れて、五戒ごかい だけをお受けさせになりました。
戒師が持戒の功徳のあらたかなことを、仏前で読みあげる願文の中にも、心にひびく有り難い言葉がありますので、現時の院は、見苦しいほど紫の上のお側にひたと寄り添って、あふれる涙を押し拭いながら、御仏を紫の上と一緒に祈念なさいます。この世にまたとなく御聡明でいらっしゃるお方でも、これほどの御心痛に惑わされる一大事の時に当たっては、やはり冷静でいらっしゃれない御様子なのでした。
どんな手段をとって紫の上を救い、そのお命を取り留めてさし上げようかと、そのことばかりを夜も昼も思いつめられては、ひどく嘆いていらしゃいますので、今ではぼうっとほう けたようにまでなられて、お顔も少しやつれていらっしゃいます。

五月の梅雨の頃などは、まして晴れ晴れしない空模様ですから、御病人はさわ やかな御気分におなりになれません。それでもこれまでよりは多少御容態も落ち着かれた御様子です。しかしやはりお苦しみはおつづきになります。物の怪の罪障を救うための供養として、毎日、法華経ほけきょう を一部ずつあげさせていらっしゃいます。連日、何くれとなく貴い法要を営まされるのでした。
紫の上の御枕上まくらがみ の近くでも、不断の読経を、声の優れた僧ばかりを集めてあげさせられます。物の怪が現れはじめるようになってからは、時々憑坐よりまし に乗り移って、悲しそうなことをいろいろ言うのですが、いっこうにこの物の怪は退散してしまわないのです。
紫の上は暑さのひどい時は、息も絶え絶えに、ますます衰弱なさるばかりなので、源氏の院は言いようもなくお嘆きになるのでした。紫の上は意識も朦朧もうろう とした御気分の中でさえ、源氏の院のこうした御様子をおいたわしくお思いになられて、
「たとい自分はいつ亡くなっても、何一つこの世に未練は残らないだろうけれど、源氏の院がこんなに御心痛のあまり思い迷っていらっしゃるのに、死んでしまった自分の姿をお目にかけるのは、あんまり思いやりのないようで」
と、気持ちを奮い立たせて、薬湯なども少しは召し上がるせいか、六月になってから、時々おつむり をお上げになられるようになりました。源氏の院は、そんな御様子も久々のことなので嬉しくお感じになるものの、まだとても御心配で、六条の院へは、かりそめにもお出かけにはなれません。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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