若 菜
・下 (二十九) | 紫の上がお亡くなりになったという噂が、世間おっぱいに拡まって、人々が御弔問に来られるのを、源氏の院は全く縁起でもないとお考えになります。昨日の賀茂の祭から、今日、斎王が斎院にお歸になる行列を、見物にいらっしゃった上達部
などは、その帰り道に、人々が紫の上が亡くなったと言うのを耳にして、 「それはほんとうに大変なことが起こった。この世では最高の栄華を極めた幸運な方が、光を失って亡くなる日だから、今日は雨がしょぼしょぼ降っているというわけか」 と、とっさの思い付きをつぶやかれる人もいます。また、 「ああいうふうに、あまりに何もかも備わっている人は、必ず短命なものです。待てといっても散っていくからこそ、桜は美しいと歌った、
<何をさくらに> という古歌もあります。こういうお方がますます長生きして、この世の栄華を極めておられては、はたの人は迷惑することでしょう。これからは二品にほん
の女三の宮も、本来の御身分にふさわしい御寵愛をお受けになるだろう。これまではお気の毒なほど紫の上に圧お
されていらっしゃったから」 など、ひそひそ噂しています。
柏木の衛門の督は、昨日一日引き籠って退屈さをもてあまし、懲こ
り懲ご りしましたので、今日は弟君の左大弁さだいべん
や藤とう の宰相さいしょう
などを、車の後方に同乗させて、祭見物にお出かけになりました。こんなふうに人々が紫の上のことを噂しているのを聞くにつけても、胸がつぶれそうで、桜は散るからこそ結構だと思い、<憂う
き世に何か久しかるべき> という歌をひとり口ずさみながら、二条の院へみんなと一緒に参上しました。確かな話ではないので、お悔く
やみというのは縁起でもないと思って、ただ普通の病気見舞いの形で参りましたが、こうして人々が泣き騒いでいますので、噂は本当だったのかと、驚かれます。 紫の上の父君の式部卿の宮も、二条の院へ参上して悲しみの余りすっかり放心の御様子でお入りになります。人々のお見舞いの御挨拶も、奥へ取り次ぐことがお出来になりません。 夕霧の大将が涙を拭って出ていらっしゃいましたので、柏木の衛門の督は、 「一体まあ、どうなさったのです。縁起でもないことを人々が噂していますので、まさかと信じられなくて、ただ長い御病気だとお伺いして、心配のあまりお見舞いに上がったのですが」 などとおっしゃいます。 「ひどく重態になられたまま、長いことになっていましたが、今日の明け方から息絶えてしまわれたのです。それは物の怪のしわざだったのです。ようやく今、息を吹き返されたと伺いまして、みんなでほっとしたばかりですが、まだとても安心できる状態ではありません。おいたわしい限りです」 と、夕霧の大将は見るからにたいそうお泣きになったお顔付きです。目もすこし泣き腫は
れています。衛門の督は、自分の大それた恋心から推量してか、この大将が、それほど親しくもない継母の御病気を、ひどく心配しておられることに注目して、怪しいと感じます。 源氏の院は、こうして誰彼がお見舞いに伺ったとのことをお聞きになられて、 「重い病人に急変があり、臨終かと思われる様子だったので、女房などは、気も動転して取り乱して騒ぎましたから、わたしもあわてふためいて気もそぞろになりました。後日改めて、こうしてお見舞い下さったことにお礼は申し上げましょう」 とおっしゃいます。衛門の督はそれを聞いただけでも胸もつぶれる思いで、こんなのっぴきならないどさくさまぎれでなければ、とても伺うことは出来まいと思うので、あたりの雰囲気に気がひけて、秘密を隠そうとする心の中は、どうもきれいだとは言えないのでした。
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