〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/16 (月) 

若 菜 ・下 (二十八)
源氏の院の極まりない御傷心を、み仏も御照覧遊ばしたのでしょうか、この歳月、とんと現れなかった物の怪が小さな女の子に乗り移って、大声でわめきはじめた間に、紫の上は、ようやく息を吹き返されました。源氏の院は、あまりにも喜ばしい一方、また死にはしないかと恐ろしくもお思いになり、心が騒ぎます。
物の怪は、僧たちにきびしく調伏されて、
「皆の者はここから出て行きなさい。源氏の君お一方だけのお耳に申し上げましょう。わたしはこの幾月調伏されて、こらしめ苦しめられるのが、あまるに情けなく辛いので、どうせ取り いたのなら、命を奪って思い知らせてあげようと思いましたが、さすがに源氏の君がお命も危うくなりそうなほど、骨身を砕いて嘆き惑う御様子を拝見しますと、わたしも今はこうした浅ましい魔界に生まれておりますものの、昔のあなたへの恋の執着が残っておればこそ、ここまで参ったのですから、あなたが悲しみのあまり取り乱している御様子を見るにしのびなくて、とうとう正体を現してしまいました。決してわたしだと悟られまいと思っておりましたのに」
と、髪を顔に振りかけて泣く様子は、ただもう、昔御覧になった六条の御息所みやすどころ の物の怪とそっくりに見えます。あの時、情けなく気味が悪いと、心にしみて感じたのと全く同じ気持がするのも、不吉に感じられ恐ろしいので、この子供の手を捕らえて引き据え、不様な振舞いをしないように、押さえていらっしゃいます。
「本当にあの方か。たち の悪い狐などの気の狂ったのが、亡くなった人の恥になるようなことを口走るということもあるそうだから、はっきりと名の名乗れ。ほかの人の知らないことで、わたしの心にだけはっきり思い出されることを何か言ってみよ。そうすれば少しは信じてやろう」
とおっしゃいますと、子供は、ほろほろと涙を流していかにも辛そうに泣き、
わが身こそ あらぬさまなれ それながら そらおぼれする 君は君なり
(このわたしこそ昔とは変わり果て 浅ましい姿になりましたが 昔に変わらぬお姿のまま 空とぼけていらっしゃる あなたは昔のままのあなた)
「ああ、恨めしや、恨めしや」
と泣き叫びながら、さすがに恥ずかしそうにしているところが、昔の御息所にそのままなのが、かえってたまらなく疎ましく、情けないので、それ以上ものを言わせまいとお思いにないます。
秋好あきこの む中宮の御事にしましても、よくお世話下さるのは、ほんとうに嬉しく有難いと、魂魄こんぱく は空を けながらも見ていますけれど、今は幽明ゆうめい 境をこと にしてしまいましたので、子供のことまでは深く心にしみて感じられないのでしょうか、やはり私自身が、ひどいお方とお恨みした執念だけが、いつまでも、この世に残るのでした。そのなかにも、この世で生きていた時、わたしを他の女たちよりもp見下げになり、捨てておしまいになったことよりも、愛するお方との睦言むつごと のついでに、わたしのことをひねくれていていや な女だったと、お話なさったことが、ひどく恨めしいのです。今はもう死んでしまった者だからと大目に見て下さって、ほかの人がわたしを悪し様に言う場合でも、それを打ち消してかばって下さればいいのにと、恨めしく思ったばかりに、魔界に ち、こんな恐ろしい身に成り果ててしまいましたので、こうした厄介なことになったのです。紫の上を深くお憎みしているわけではないのですけれど、あなたは神仏の御加護が強くて、遠くに隔てられているような感じがして、とてもお側に近づくことも出来ず、お声だけをかすかにお聞きするばかりなのです。もうこの上は、わたしの罪が軽くなるよう、御祈祷をして下さいませ。調伏のためにやれ修法ずほう 、やれ読経どきょう などと大騒ぎしても、わたしにとりましては、ただただ苦痛で、辛い炎となって身にまつわりつくばかりで、いっこうに有り難いお経も耳に入りませんので、とても悲しくてなりません。どうか中宮にもこのことをお伝え下さい。宮仕えの間は、決して人と争ったり、嫉み心を起こしてはなりません。斎宮さいぐう でいらっしゃった頃、神にばかり仕えて、仏道をおろそ かにした罪障が軽くなるように、功徳になる供養を、必ずなさいますようにと。あの頃のことは、ほんとうに後悔されることでございました」
など、言い続けます。物の怪に向かってお話なさいますのも笑止なことですから、憑坐よりまし の子供を一室に閉じ込めて、紫の上を、また別の部屋にそっとお移しになります。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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