〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/15 (日) 

若 菜 ・下 (二十五)

よそながら想像していたかぎりでは、女三の宮は威厳がおありで、馴れ馴れしく打ち解けてお逢いするなどしたら、気後れしそうなお方と推量していましたので、柏木の衛門の督は、ただ、こんなにまで思いつめた恋心の片端だけでも訴えて、お聞きいただければ、かえってそれ以上の色めいた行為には及ばないでおこうと、思っておりました。ところが現実の女三の宮は、それほど気高けだか く、気がひけて近寄りにくいというようではなくて、やさしく可愛らしく、いかにもなよやかにお見えの感じが、この上なく上品で美しく思われますのは、誰に比べようもないものでした。
衛門の督は、そんな女三の宮のお姿を近々と目にし、柔らかいお肌にふれているうちに、もう冷静な理性も、自制もすべて失ってしまって、どこへなりとも女三の宮をお連れして、お隠ししてしまい、自分もまた世間を捨てて、ご一緒に行方をくらましてしまおうかとまで、惑乱するのでした。
その後は、ほんの少しうとうとしたとも思えないつか の間の夢に、柏木の衛門の督は、あの手馴らした猫が、いかにも可愛らしい声で鳴きながら近寄って来たのを見ました。この宮にお返ししようと、自分が連れ来たように思われるのだけれど、どうしてお返しなどしたのだろうと思ったところで、目がさめました。いったいなぜこんな夢を見たのかと、衛門の督ははたと思いました。
女三の宮は、信じられないこの成り行きの、あまりの浅ましさに、かえって現実のことともお思いになれず、胸もふさ がり呆然と途方にくれて、悲嘆に沈み込んでいらっしゃいます。柏木の衛門の督は、
「やはり、こうして逃れられない前世からの因縁で結ばれていたのだとおあきらめ下さい。我ながら、正気の沙汰とも思われません」
と言って、あの、女三の宮としては記憶にもなかった。御簾の裾を猫の綱が、引き上げた春の夕暮れの出来事も、お話申し上げたのでした。そういえば、たしかにそんなこともあったかと、女三の宮は口惜しくてなりません。
思えばこんな取り返しもつかない過ちを犯すような薄幸な運命のお方なのでした。
源氏の院にも、こんなことになった以上、これからはどうしてお目にかかることができようと、悲しく心細くて、まるで幼い子供のようにお泣きになります。
柏木の衛門の督は、そんな女三の宮がただもうもったいなくもお可哀そうにも思われて、宮のお涙までぬぐ ってさしあげる自分の袖は、ますます濡れ勝るばかりでした。
夜もようやく明けていくようですが、帰って行こうとしても、行方もなく、衛門の督は思いを遂げて、かえって切なさに身をさいなまれるようでした。
「ほんとうにどうしたらいいのでしょう。ひどくわたしをお憎みでいらっしゃrっようですから、二度とこうしてお逢いすることもむずかしいでしょうに、せめてただ一言、何かおっしゃって下さいます」
と、あれこれせがんで困らせ申し上げるのにつけても、女三の宮はただうるさく情けなくて、一向に一言もお口にされないので、衛門の督は、
「こうまで口をきいて下さらないので、何だか最後には気味が悪くさえなってきました。こんな冷酷なお扱いは、ほかにまたとはないことでしょう」
と、真実あんまりひどいとお思いになって、
「それなら、もうわたしは死んだほうがいいのですね。ええ、もう、命を捨てるほかありません。今まであなたに未練があったればこそ、こうして生きていたのです。でももう今宵限りの命と覚悟を決めますと、悲しくてなりません。ほんの少しでもお心を開いて下さるお情けがお示しいただけますなら、そのお情けの代償にこの命を捨てもいたしましょう」
と言って、宮を抱き上げたまま部屋を出ます。一体これからどうなるのだろうと、女三の宮は途方にくれて呆然としていらっしゃいます。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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