〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/13 (金) 

若 菜 ・下 (二十四)

どうなったか、どうしたかと、それからは毎日責められるのに困りきって、小侍従はよい折をやっと見つけ出して、手紙で知らせてきました。柏木の衛門の督はひどく喜んで、あまり目立たないように姿をやつして、人目を忍んでこっそりお出かけになりました、本当のところ、我ながらこんなことはいかに不届きなけしからぬことかと重々分かっていますので、宮のお側に近づけば、かえって思いつめた感情が高ぶり、惑乱してしまうなどとは、思いも寄りません。ただ、ほんのちらりと、お召物の端だけでも垣間見た、あの春の夕暮が忘れられなくて、物足らずにいつまでも思い出される女三の宮のお姿を、少しだけお側近くで拝見して、胸の思いを申し上げたなら、せめて一行ぐらいのお返事は頂けるだろうか、可哀そうにとでも思って下さるだろうか、などと考えます。
四月の十日過ぎのことでした。賀茂の祭の御禊みそぎ を明日にひかえて、斎院さいいん にお手伝いにさし上げる女房十二人、あまり身分の高くない若い女房や女童おんなわらわ などが、めいめい、それぞれの晴れ着を縫ったり、化粧したりしながら、見物に出かけようと支度にあれこれ余念がなく、せわ しそうにしています。
女三の宮のお側のあたりはひっそりとして、人の少ない折なのでした。いつもはお側近くにお仕えしている按察使あぜち の君も、時々通って来る恋人のげん中将ちゅうじょう が、無理に誘い出しましたので、自分の部屋に下がっていた時に、ただ小侍従だけがお側にひかえていたのでした。よい折だと思い、小侍従は柏木の衛門の督を、そっと宮の御帳台の、東側の御座所に坐らせました。ほんとうはそうまでしなくてもよかったのに。
女三の宮は無心にお寝みになっていらっしゃいましたが、身近に男のいる気配がするので、源氏の院がいらっしゃったのだとばかりお思いになりました。ろころが男はいかにも恐れかしこまった態度で、宮をお抱きして御帳台の下にお降ろし申します。宮は夢に何か恐ろしいものにでも襲われているのかと、せい一杯お目を開いてその者を見上げられますと、なんと源氏の院とは違った男なのでした。その男はみょうな、何を言っているのか意味もわからないようなことを、くどくどと言うではありませんか。
女三の宮は気も動転して驚き呆れ、気味が悪く恐ろしくなられて、女房をお呼びになりましたが、近くには誰も控えていないので、お声を聞きつけて参る者もおりません。
わなわな震えていらっしゃる御様子で、冷や汗も水のように流されて、今にも気も失わんばかりのお顔付きは、ほんとうに痛々しく、可憐でいらしゃいます。
「わたしは物の数にも入らぬつまらない者ですが、こんなにまでひどくお嫌いになられるような者とも思われません。昔から身の程知らずにあなたさまをお慕い申しておりましたが、ひたすら自分の胸ひとつに秘めたまま終らせてしまえば、自分の心の中だけに、その恋を埋もれ朽ちさせることも出来たにしょうに、かえって、意中を口にしてしまい、それが朱雀院のお耳にも達しました。ところが院はそも時、満更望みのないことのようにもおっしゃいませんでした。それでこの恋に望みをかけ始めたのです。それなのに、わたしの身分が一際ひときわ 劣っていたばかりに、誰よりも深い自分の恋心を無駄にしてしまいました。それを無念に思って心を乱したことも、今は何もかも、取り返しのつかぬ、せん ないことと思い返してみるのですが、いったいどれほど深く心に みついたものか、月日が経つほど、残念にも、辛くも、恐ろしくも、悲しくも、いろいろに悩みが深くつのるばかりなのです。とうとうこらえかねて、こんな身の知らずのおそ れ多い振舞いをお目にかけてしまいました。一方ではこんな行為はいかにも思慮のないことで恥じ入り、申し訳なく存じておりますので、これ以上、大それた重い罪を犯す気持はさらさらございません」
ち言い続けるのを聞くうちに、女三の宮は柏木の衛門の督だと気づかれました。宮はひどく心外で腹立たしく、また恐ろしかったので、一言の御返事もなさいません。
「お怒りになるのもほんとうにごもっともなことですが、こうしたことは世間に例のないことでもありません。それなのに、世に稀なほどひどく冷たいお心をお見せになりますと、わたしは情けなさのあまり、かえって自制心を失ってしまうかもしれません。せめて可哀そうだとだけおっしゃって下されば、その言葉を伺ってわたしは退出いたしましょう」
と、あれこれとこまやかに申し上げます。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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