〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/13 (金) 

若 菜 ・下 (二十三)

さて、そういえば、あの柏木の衛門の督は中納言に昇進していました。今も帝の御信任がたいそう厚くて、まったく今を時めく人でした。御自分の信望がいや増すにつけても、女三の宮への失恋の嘆かわしさを思い悩んでたまらなくなり、女三の宮の姉君の女二の宮を北の方に頂きました。この宮は身分の低い更衣こうい が母君なので、どうしても多少軽く見ていらっしゃいました。人柄も普通の人に比べると、その御様子は何となくはるかに上品でいらっしゃるのですが、はじめに恋して心にしみこんでしまった女三の宮への想いが、やはり深かったので、どうしても心が満たされないのでした。ただ人目に怪しまれない程度に、北の方として重んじていらっしゃいました。
そうなってもやはり女三の宮への秘めた恋心は忘れることが出来ません。小侍従こじじゅう という相談相手の女房は、もともと女三の宮の侍従の乳母めのと の娘で、その乳母の姉がまた、この衛門の督の乳母だったので、衛門の督は早くから女三の宮のお噂を身近にお聞きしていたのでした、まだ女三の宮の御幼少の頃から、たいそうお美しいことや、御父の帝がとりわけ御寵愛遊ばしていらっしゃる御様子などをお聞きしていましたので、こうした恋心も抱くようになったのでした。
紫の上の御病気騒ぎから、こうして源氏の院もずっと六条の院にはいらっしゃいませんので、おそらく六条の院は人目も少なくひっそりとしていることだろうと推量して、小侍従を度々お邸へ呼び寄せては、手引きするよう、熱心にかき口説きます。
「昔からこんなに死ぬほど恋い焦がれているわたしには、あなたのような親しい手づるがあって、女三の宮の御様子もお伺いすることが出来、抑えがたいこの想いのせつなさも、女三の宮にお伝えしていただいて、頼もしいと思っているのに、一向にその効果があらわれないので、ほんとうに辛くてたまらない。朱雀院でさえ、源氏の院がこんなふうに多くの女君に情けをかけて、女三の宮は、紫の上の権勢に気圧けお されていらっしゃる御様子で、お寂しくひとり寝なさる夜が多く、所在なさそうにお暮らしの御様子だなどと、人からお聞きになられると、少し後悔遊ばされた御様子で、
『どの道同じ臣下に縁づけて気楽に暮らせるなら、もっと忠実に世話してくれる人物を選ぶべきだった』
と仰せになって、
『女二の宮がかえって何の心配もなく、行く末長く添い遂げられそうだ』
とおっしゃったそうだが、それを聞くにつけ、おいたわしくも残念に思われて、どんなに思い悩んだことか。たしかに同じお血筋の御姉妹だからと思って女二の宮をお迎えしたのだけれど、それはそれだけのことで、やはり女三の宮とは違うのだから」
と、重い吐息をもらされます。小侍従は、
「まあ、何と大それたことを。それはそれだけのことだなんて、女二の宮さまをさし置かれて、その上にまた女三の宮をとは、何という際限ないお心なのでしょう」
と言いますと、柏木の衛門の督は苦笑して、
「まあそういうものだよ。わたしが女三の宮を勿体もったい なくも頂戴したがっていたことは、朱雀院も帝も、あの頃は御承知だったのだ。
『別に衛門の督で降嫁させても不都合はない』
と、何かの折に仰せられたこともあったのだよ。まあ、いい。ただもう一押しあなたが骨折って下さっていたらよかったのに」
などと言います。小侍従は、
「とてもそんなことは無理ですわ。前世からの御宿縁とかいうこともあるのでしょうが、あの当時、源氏の院が熱心にお口に出して御求婚なさったのに対して、それに張り合ってその御縁談の邪魔をなさるほどの御器量が御自分におありだとお考えでしたか。この節こそ、少しお偉くなって、御召物の色も官位相当に濃くおなりになりましたけれど」
と、とても敵わないほど無遠慮な、手きびしい口調に言いまくられて、衛門の督は思っただけのことも言いきれなくなり、
「もういい。過ぎてしまったことは今更言うのはよそう。ただこんなめったにない源氏の院のお留守の折に、お側に近づいて、わたしのこの苦しい心の想いを、片端だけでも少しお打ち明け出来るよう、取り計らって下さいよ。身の程知らずな大それた考えは絶対に持っていない。まあ見ていなさい。そんなことはとても恐ろしくて、全く考えてもいないのです」
とおっしゃいますと、小侍従は、
「これ以上の大それた考えが、他にあるものですか。何てまあ気味の悪いことをお考えつきになったのでしょう。わたしは何のためにこちらへ伺ったのかしら」
と、口をとがらせてはねつけます。
「何と、聞きづらいことをずけずけ言う。あまり大袈裟なものの言い様をするものではない。男と女の仲は実に頼りないもので、女御、后のような御身分のお方でも、事情があって、ほかの男と不倫な間柄になられる例もないわけではない。ましてあの女三の宮の御様子といったら、考えてみればたしかに並ぶ者もないくらいすばらしいけれど、内実は、紫の上に圧倒されておもしろくないこともたくさんおありに違いないだろう。朱雀院が大勢のお子様方の中でも、お一人だけ抜きん出てまたとなく大切にお育てになっていらっしゃったのに、今ではあのようにとても同じ御身分としては扱えない方々御一緒にされ、心外なこともきっと多いでしょう。何もかもわたしは聞いているのだよ。この世の中は明日をも知れないものなのに、そう一概に頭から決めてかかって、無愛想な言い方はしないほうがいいよ」
とおっしゃいますと、小侍従は、
「ほかの女君にひけをとっていらっしゃるからと言って、今更ほかの結構な殿方へ改めて御輿入こしい れというわけにはいかないでしょう。源氏の院との御結婚は、世間普通の御夫婦仲というものでもないでしょう。ただ後後見役もなくて、頼りなくお一人でいらっしゃるよりは、親代わりになっていただこうと、朱雀院が源氏の院にお譲り遊ばされた御結婚なので、お二人ともお互いにそんなふうに思い合っていらっしゃるのでしょう。ほんとうにつまらない見当外れな悪口をおっしゃるものですわ」
と、おしまいには腹を立ててしまいます。柏戸の衛門の督は、あれこれと言いなだめて、
「ほんとうのことを言えば、源氏の院のあれほど世にまたとないほど御立派なお姿を、日頃見馴れていらっしゃる女三の宮の心に、物の数でもない自分の見すぼらしい姿を、打ち解けてお目にかけようなどとは、まったく考えてもいないのです。ただ、一言、物を隔ててわたしの気持を申しあげるくらいなら、お許し下さっても、それがどれほど、女三の宮の御身分のきず になるというのだろう。神仏にも、自分の思う願いを申し上げるのは、罪になることがあるだろうyか」
と、決して間違いは起さないと大仰な誓約を立てておっしゃいますので、小侍従は、初めのうちこそ、全くとんでもない無理なことをと、断っていましたが、まだ分別の足りない若女房のことなので、柏戸の衛門の督が、命に代えてもと、ひどく思いつめて熱心にお頼みになるのを、とうとう断りかねて、
「もしちょうど都合のよい時が見つかったら、取り計らってみましょう。源氏の院のお留守の夜は、御帳台ちょうだい のまわりに女房たちが大勢集まっていて、御座所の近くにも、必ずこれといったどなたかが付き添っておられますから、どいうい折に、すきを見つけたらいいのかしら」
と、困りながら帰って行きました。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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