〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/13 (金) 

若 菜 ・下 (二十二)
同じような御容態のまま、二月も過ぎてしまいました。源氏の院は、言葉もないほど御心配になりお嘆きになられて、試しに場所を変えてみようと、二条の院に紫の上をお移しになられました。
六条の院では上を下への大騒ぎになり、悲しみまど う人も多いのでした。冷泉院もお耳にされお嘆き遊ばします。紫の上が亡くなられたりしたら、源氏の院もかならず出家の本意をお遂げになるだろうと、夕霧の大将なども、心の限り御看護に尽くしていらっしゃいます。御病気平癒の御祈祷などは、源氏の院がなさるのは云うまでもなく、それ以外にも特別におさせになります。
紫の上は、少し御気分のたしかな時には、
「お願いしている出家を、お許し下さらないのが、つらくて」
と、そればかりお恨みなさいます。源氏に院は、寿命が尽きて永のお別れをしなければならないことよりも、目の前で、御自分から出家なさって変わりはてた尼姿になられるのを見ては、なおさら片時もたまらないほど、惜しく悲しく思われるに違いないので、
「昔からこのわたしこそ、そうした出家の願いが深かったのに、後に残されたあなたがどんなに淋しく思われるだろうかと、それが心配なあまり、出家出来ないで年月を過ごして来たのです。それなのに反対にあなたがわたしを捨ててしまおうとなさるのですか」
とばかりおっしゃって、ただもう、紫の上の出家を惜しんでいらっしゃるばかりです。
そのうちにも、紫の上はとても弱々しくなられ、もう望みが持てないほど衰弱しきって、今にも御臨終かと思われるような時が多くなりました。
源氏の院はどうしたものかと思い乱れて、女三の宮の方へは、ほんの少しのお訪ねもありません。お琴なども、すっかり興ざめがして、皆、取り片付けてしまいました。六条の院の人々は、誰もみなこぞって二条に院に移ってしまい、六条の院はまるで火が消えたようで、ただ女君たちが残っていらっしゃるだけで、これまでの華やかさは、ただもう紫の上お一人の御威勢で生まれていたのだと、今更のように思われます。
明石の女御も、二条の院にお越しになって、源氏の院と御一緒に紫の上を御看病遊ばします。紫に上は、
「御懐妊中でいらっしゃるのに、もしもの などに憑かれたら恐ろしいことです。早く宮中にお引き取り下さい」
と、苦しい御気分のなかからも、しっかり申し上げます。おつれになった若宮がとても可愛らしいのを御覧になって、激しくお泣きになるのでした。
「大きくおなりになるのを拝見できないことでしょうね。きっと私のことはお忘れになりますわね」
とおっしゃるのを聞かれて、明石の女御は涙をせきとめられず、お悲しみになります。源氏の院は、
「縁起でもない。そんなことをお考えになってはなりません。たとえ病気が重くても、まさか、死ぬようなことがあるものですか。気の持ち方次第で、人はどうにもなるものです。心の広い器量の大きい人は、幸せもそれに応じて大きく、狭い心の人間は、何かの拍子に出世しても、ゆったりと余裕のあるところが乏しく、短気な人は長くその地位にとどまりがたいものです。心がおだやかでおっとりした人は、長生きする例が多いのです」
などおっしゃって、仏や神にも、紫の上の御性質がこの上なく御立派で、前世の罪障の軽いことを、願文の中に詳しく申し上げます。
御祈祷の阿闍梨あじゃり たちや、夜通し詰めている僧の中でも、お側近くに控えている高僧たちは皆、源氏の院がこれほどまでに取り乱していらっしゃる御様子を拝見するにつけ、たいそうおいたわしいので、さらに心を奮起させて祈祷してさし上げます。いくらかでも快方に向かう御様子のお見えになる時が、五、六日時々つづいたかと思うと、また重態になってお悩みになる容態が、いつ果てるともなくつづきました。そうして月日が過ぎてしまいましたので、やはりこれからどうおなりになるのか、お治りにならない御病気なのかと、源氏の院はお悲しみになられます。
物の怪などが、名乗り出て来る者もありません。御病気の御様子は、どこがどうお悪いというのでもなくて、ただ日一日と御衰弱がつのる一方にようにお見受けされます。源氏の院は心底からせつなく堪え難くお思いになられます。全く他のことには、お心を配るゆとりもおあるにならないようでした。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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