〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/10 (火) 

若 菜 ・下 (十八)
夕霧の大将は、若君たちをお車に乗せて、澄み渡った月光のもとを帰ってゆかれます。
道々、紫の上の筝の琴の普通とは変わっていた、あのすばらしい音色が耳について離れず、ひとしお恋しく思われます。雲居くもいかり の君には、亡き大宮がお教えになられましたけれど、あまり熱心にお習いなさらなかったうちに、大宮と別れておしまいのなられたので、ゆっくりと御習得も出来なかったのです。そのせいか、男君の前では、恥ずかしがって少しもお弾きになりません。何につけてもただ素直に、おっとりとした御様子で、お子たちのお世話に次々と暇もないほどかまけていらっしゃるので、情趣のある風情などはないようです。それでもさすがに怒りっぽくて、すぐ焼き餅を焼かれるところは、愛嬌あいきょう があって可愛らしいお人柄でいらっしゃいます。
源氏の院はその夜、東のたい へお越しになりました。紫の上は、こちらにお泊まりになって、女三の宮とお話しなどなさって、明け方、東の対へお帰りになり、その日は昼近くまでお二人でおやす みになっていらっしゃいます。
「女三の宮のお琴は大層上手になられたものですね。どうでしたか、あのお琴は」
とお聞きになりますと、紫の上は、
「はじめの頃。あちらでちらとお聞きした折には、どんなものかと危ぶまれましたけれど。今ではすっかりお上手になられましたね。だって当り前ですわ。あなたがこんあに熱心に教えておあげになっているのですもの」
とお答えになります.
「そう、そう、毎日手を取って教えている頼もしい師匠だものね。琴はむつかしくて面倒なものだし、稽古に時間のとられるものだから、ほかのどなたにも教えてあげなかったのだけてど、朱雀院も、
『それにしてもきん だけは女三の宮に教えてさしあげているだろう』
と仰せられていると、 れ聞いたので、申し訳なく、いくら何でもそれぐらいのことをさせていただかなくては、こうしてせっかく特別に宮をお預かりして、御後見役をお引き受けした甲斐もないわけだと、思い立ってお教えしたのです」
とお話しになるついでに、
「昔、まだ小さかったあなたを大切にお世話していた頃は、わたしにはひま がなくて、落ち着いて特別に教えてあげるゆとりもなくて、近頃になっては、またどういうこともなく次々、忙しさにかまけて日を送り、あなたのお琴を聞いてあげることも出来なかったのに、昨日のあなたの出来栄えのすばらしさには、わたしも面目をほどこしましたよ。夕霧の大将が、すっかり感動して驚いていた様子も、思う通りで嬉しくてならなかった」
などとおっしゃいます。紫の上はこうした音楽の才能もすばらしく、また今では御年配らしく、御孫の宮たちのお世話を熱心にすすんでなさるのが、すべてに行き届いていて、何につけても人からとやかく批難されそうな欠点もなく、完全なのでした。
そうした世にも珍しいお人柄なので、これほどすべてを具えた人は、あまり長生きのできない例もあるからと、源氏の院は縁起でもないことまでついお考えになられます。これまでさまざまな女君たちの身の上を御覧になってこられただけに、これほど何もかも備わって不足のないこのようなお方は、ほんとうにまたとはないとお思いになります。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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