〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/06 (金) 

若 菜 ・下 (十六)

「どういう芸道でも、その道々について稽古しようとすれば、どれも才芸には再現のない深さがあることがわかって、自分で満足出来るまで習得しようとするのはとても難しいものだ。いやしかし、今の世にそんな深い奥義をきわ めている人はめったにいないのだから、ほんの片端でも一通り稽古を積めば、それで満足して、まあこんなものかとすませてしまってもいいのだけれど、きん だけはやはりちょっと面倒で、うかつに手がつけられないものなのだ。この琴については、本式に古い奏法通りに極意を習得した昔の人は、その音色で天地を思いのままに動かし、鬼神の心も和らげ、ほかのすべての楽器が事の音に従って、深い悲しみを抱いた人もたちまち幸せななり、賎しく貧しい者も、高貴な高貴な身分に変わり、財宝に恵まれ、世に認められるといった例も多かった。わが国に琴の奏法が伝えられたはじめの頃までは、これを深く会得した人は、長い年月を見知らぬ外国へ行って暮し、身命を投げうってこの琴の弾き方を習得しようと、ひどい苦労をしたようだ。そうまでしてさえ、望みを果たすことは難しかった。それでも確かに、琴の絶妙の音色が、明らかに空の月や星を動かしたり、時ならぬ時に霜や雪を降らせたり、黒雲を湧かせ、雷鳴をとどろ かせたという例も古い昔にはあったものだ。こうした最高の楽器なので、完全にその技法を習得できた人はめったになく、今は末世だから、どこにその昔の秘法の片鱗でも伝わっているかという有り様だ。しかし、やはり鬼神が耳をとどめて聴き入ったといわれてきた琴だからか、なまはんかに稽古したため、かえって不本意な身の上になった者たちがあるものだから、琴を弾くと禍を招くというような難癖をつけて、面倒に扱われるにつれて、今ではほとんどこれを習い伝える人が少なくなったとかいう話だ。何とも残念なことだ。琴の音がなくては、何を基準にして楽器の音律を定めることができよう。いかにも、すべてのことが早々と衰退していく今の世の中に、一人故国を離れて、芸道に志して、唐土もろこし高麗こま と、流浪しては、親や妻子も顧みなくなったら、世間からはすね者と言われもしよう。。何もそれほどにはしないでも、やはり琴の奏法がどんなものかと、その一端だけでも心得ておきたいものだ。一つの調べを完全に弾きこなすだけでも、計り知れないほど難しいようだ。まして無数の調べや、難曲が多いから、わたしが熱中して稽古していた若い頃には、およそ世の中にあるかぎりの、わが国に伝わっている譜という譜のすべてを、ことごとく参考にして研究したものだ。しまいには師匠とする人もなくなるまで、好きで習ったものだけれど、やはり昔の名人の芸にはとても及びそうになかった。ましてわたしの後となっては、この技を伝授できそうな子孫もないのが、何とも寂しい気がする」
などとおっしゃるので、夕霧の大将は、自分をほんとうに不甲斐なく残念な者に思われます。
この明石の女御の皇子たちの中に、わやしの望んでいるように御成人なさる方がいらっしゃったら、もしそれまで長生きすることが出来れば、その時こそ大したこともないわたしの技でもそのすべてを、伝授申し上げよう。二の宮は、今から音楽の才能がありそうにお見えになるが」
などおっしゃるので、明石の君は、たいそう名誉なことに思い、涙ぐんでいらっしゃいます。
明石の女御は、そう の琴を、紫の上にお譲りして、物によりかかり横になられましたので、和琴を源氏の院のお前にさしあげ、今までより打ち解けた御遊びになりました。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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