〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2017/01/03 (火) 

若 菜 ・下 (十三)
心にしみる黄昏たそがれ 時の空に、去年の残雪かと思われるほど、枝もたわわに白く梅の花が咲き乱れています。
ゆるやかに吹く風に、言いようもなく匂ってくる御簾の内からの薫りも、梅の香にただよい交じって吹き合わせ、古歌にもあるように、花の香が <うぐひす 誘ふしるべ> にもなりそうな、すばらしい芳香の満ち漂う御殿のあたりでした。
御簾の下から、源氏の院は筝のお琴を少しさし出して、
不躾ぶしつけ だけれど、このお琴の絃を張って調子を整えてみて下さい。ここにはあなた以外にそううっかり人を呼びこむわけにはいかないので」
とおっしゃいます。夕霧の大将が、かしこ まってお琴を受け取られる態度は、いかにもたしなみ深く好ましく、壱越調いちこくちょう の音にはち の絃を整えて、すぐには弾いてみないで控えていらっしゃいます。源氏の院が、
「調子を合わせる程度に一曲ぐらいは、お愛想に弾いてみては」
とおっしゃいますと、夕霧の大将は、
「今日の皆さま方の御演奏のお相手としてお仲間に入れていただけるような手並みとはとても考えられません」
と、きどった御挨拶をなさいます。
「それもそうだけれど、女楽の相手も出来ずに逃げてしまったと、噂されては、それこそみっともない話だろう」
と源氏の院はお笑いになります。夕霧の大将は調子をあわせ終ってから、ちょっと興味をそそる程度に調子合わせの曲だけをさらりと弾いて、お琴を御簾の中にお返ししました。あの小さいお孫たちが、たいそう可愛らしい直衣姿で引き合わせる笛の音色が、まだ幼い響きながら、先々の上達が思いやられて、いかにもたの しみに聞かれます。
それぞれの楽器の調子合せがすっかり整って、いよいよ合奏が始まりました。どなたも優劣のない中にも、明しの君の琵琶は一際、名手めいていて、神々しいような古風なばち さばきが、澄み透った音色を美しく響かせます。紫の上の和琴は、夕霧の大将も耳をそばだてていらっしゃいますと、柔らかななつかしい愛嬌のある爪音つまおと で、絃を掻き返す音色がはっとするほど新鮮で、その上、この頃世間で評判の名人たちの、大層ぶって仰々ぎょうぎょう しく弾きたてる曲や調子にひけを取らず、はなやかな感じで、和琴にもこうした弾き方があったのかと、夕霧の大将は聞いて思わず感嘆なさいます。大変なお稽古のあとがありありと音色にあらわれていてみごとなのに、源氏の院もほっと安堵なさって、まったくまたとないすばらしいお方だとお思いになるのでした。
明石の君の筝のお琴は、ほかの楽器の合間合間に、ほのかに音色の洩れてくるというのが持ち味なので、ただもう可愛らしく優雅に聞こえます。
女三の宮のきん は、まだ技量に幼いところがおありですけれど、熱心にお稽古の最中ですから、危なげがなく、ほかの楽器とたいそうよく響きあって、ずいぶんお上手におなりになったものだと、夕霧の大将はお聞きになりました。
それに合わせて大将が拍子をとって唱歌そうか をなさいます。源氏の院もときどき扇を鳴らして調子をとりながら、御一緒に歌われるお声は、昔よりはるかに情趣があって、少しお声が太く、どっしりした感じが加わっているように思われます。夕霧の大将も、お声のたいそういいお方で、夜が静かに けてゆくにつれて、言いようもないほど親しみのある味わい深い夜の音楽の宴になりました。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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