〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/12/26 (月) 

若 菜 ・下 (十)

髭黒の右大臣は、以前よりも繁々と、六条の院に参上して親しくお仕えしていらっしゃいます。今では北の方の玉鬘の君もすっかり落ち着かれた御年配になられましたので、源氏の院も昔のように恋愛めいた気持はさっぱり忘れておしまいになったからか、何かの折々につけて、よく六条の院にお見えになります。その折には紫の上にもお目にかかって、この上ないむつ まじさでお付き合いなさっています。
女三の宮お一人が、昔と変わらず若々しくおっとりとしていらっしゃるのでした。
明石の女御については、源氏の院も今ではすっかり帝にお任せしきって、女三の宮ばかりを、たいそうお心にかけていじらしくお思いで、まるで幼い御娘ででもあられるかのように、大切にいたわり、お世話なさるのでした。朱雀院から、
「この頃は死期が今にも近づいたような気がして、何となく心細いので、俗世のことは心にかけまいときっぱりと決心して出家したのに、もう一度あなたに逢いたいと切に思うのです。この未練が万一逢えない怨みになって後生のさわ りになるのではないかと不安です。どうか大げさでなく、こっそりこちらへおいで下さらないか」
と、女三の宮にお頼りなさいましたので、源氏の院も御覧になって、
「まことにごもっともなことです。こういうお言葉がなかったとしても、こちらから参上なさるべきでしたのに、ましてこうしてお待ちかねでいらっしゃるとは、ほんとうにお気の毒なことでした」
と、女三の宮の御訪問のことを御計画なさいます。
「それにしてもこれといったきっかけも、名目もなく、また何の趣向もなしに、気軽に参上するのもどうかと思われるので、何か催しごとをして、お目にかけたらいいだろう」
と、いろいろ御思案をめぐらされます。ちょうど来年は朱雀院が五十歳におなりになるので、五十の賀の若菜を調理して献上し、お祝い申し上げてはどうだろうとお考えつきになります。お祝いにお贈りする様々の御法衣の御用達や、祝宴の精進料理の御準備なども、在俗の人とは様式の違ったお祝いになりますので、女君たちのお知恵もいろいろお借りしては、あれこれ工夫をこらされるのでした。
昔も、朱雀院は音楽の御趣味が深くていらっしゃいましたので、舞人や楽人などを念入りに選び出し、その道の名手ばかりをお揃えさせになります。
髭黒の右大臣の御子息たち二人、夕霧の大将の御子息は、藤の典侍との間に産まれたお子も加えて三人、まだお小さい方々ですが、七歳より上のお子たちは、みなこの際、童殿上わらわてんじょう をおさせになります。
そのほか、螢兵部卿の宮の御子息など、すべてのしかるべき宮家のお子たちや、名家の若君たちを、皆選び出されます。若い殿上人たちも容貌のすぐれた、舞姿の特に引き立ちそうな人たちばかりを選んで、数々の舞の準備をおさせになるのでした。
大変な盛儀になりそうな御賀のことなので、誰も皆、懸命に練習に励んでいらっしゃいます。音楽や舞のそれぞれの道の師匠たちや、名人とかいわれる人たちは、この節引っ張りだこ の忙しさです。
女三の宮は、前々からきん のおこと を習っていらっしゃいました。まだ十四、五歳のたいそうお若い時に、御父の朱雀院にお別れになりましたので、院も上達のほどを御心配されて、
「こちらへお越しになる機会に、女三の宮のきん を、ぜひ聞きたいものだ。いくら何でも琴くらいは上手に弾けるようにおなりだろう」
と、陰でひそかにお噂なさったのが、帝もお耳にされて、
「全く、何といっても、やはり見ちがえるように上達していらっしゃることだろう。朱雀院の御前で、女三の宮がお手並みの秘術を尽くされる時には、わたしも聞きに伺いたいものだ」
など、仰せになられたのを、源氏の院は人伝におお聞きになられます。
「この年月、折のあるごとに女三の宮のきん をお教えしてきたので、女三の宮の琴のお腕前は、確かにお上手にはなっていらっしゃるけれど、まだ朱雀院のお耳に聞きごたえのあるような味わいに深い技量には、とても及ばない。それなのに、女三の宮が何のお心づもりもなく参上なさったついでに、院がぜひにとお所望遊ばしたら、さぞきまりの悪い目におあいだろう」
と可哀そうに思われて、最近になって、熱を入れて、きん のお稽古をつけておあげになります。
珍しい秘曲の手だけをm二つ三つと、面白い大曲だいごく などの、四季に応じて響きを変え、気候の寒暖によって調子を整えるといった、貴重な秘曲の秘術のすべてを、特に念を入れてお教えになります。女三の宮は頼りないところもおありのようですけれど、次第に会得なさるにつれて、とても御上達なさいました。
「昼は人の出入りが多くて、絃をただ の一回でもゆすったり押したりするその間も、やはり気持が落ち着かないので、毎夜、あたりが静かな頃に、極意をしっかりと教えてさしあげましょう」
ということになり、紫の上にも、その頃はわけを話してお閑を頂いて、明けても暮れてもお教えになります。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next