〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/12/17 (土) 

若 菜 ・下 (五)

これといったこともなく年月が重なって、冷泉れいぜい 帝が御即位遊ばしてから十八年になられました。帝は、
「自分には次の帝になってくれる世継ぎの皇子もおらず、張り合いがないし、先々いつまで生きられるか心許ないので、これからは気楽にして、親しい人々にも会ったりしながら、おおやけ の生活を退しりぞ いて、気ままにのんびりくらしたいものだ」
と、年来ずっとお考えになり、お口にもしていらしゃいましたところ、最近たいそう重い御病気をなさいまして、にわか に御譲位遊ばしました。
世間の人々は、まだまだ惜しいほどのお若い盛りのお年頃なのに、こうも急に御退位遊ばすのはと、惜しみ嘆きましたが、東宮も御成人なさいましたので、引き続いて御即位になり、世の中の政治面などでは、これといって大きな変化も見られませんでした。
太政大臣は、辞職の願書をさし出して、邸内に引き籠ってしまわれました。
「世の中の無常さを観じられて、畏れ多い帝さえ御位をお下りになられたのに、わたしのような老人が職を辞し、冠を脱ぐのに何の未練があろうか」
とお考えをおっしゃいます。
そこで髭黒の左大将が右大臣に御昇進になり、天下の政務を執行なさることになえいました。
髭黒の右大臣の御妹君で、新帝の御生母の承香殿しょうこうでん の女御は、こうした時節をお待ちにならないで、すでにお亡くなりになりましたので、最高の皇太后位の追贈をお受けになりましたが、光の当たらぬ物陰といった感じで、張り合いのないことでした。
明石の女御のお産みになった一の宮が東宮にお立ちになりました。そうなる筈と、前々から予想はしていたものの、いざそれが実現してみると、やはりおめでたいことで、目もさめるようなすばらしいことでした。
夕霧の右大将は大納言だいなごん に昇進なさいました。髭黒の右大臣とはますます理想的なむつ まじい御間柄です。
源氏の院は、御退位遊ばした冷泉院にお世継ぎがいらっしゃらないのを、内々密かに物足りなく思っていたっしゃいました。新東宮も同じ御自分のお血筋ではあるものの、冷泉院へのお気持には格別なものがあります。これまで冷泉院の御在位中は、お胸の内の御煩悶を外にお洩らしにならなかったおかげで、これといって表沙汰にはならないまま、御出生の秘密という罪は世間に洩れずに、御治世を無事に全うされました。その代わりに御子がなく、帝位を子孫に伝えることが出来なかった冷泉院の御宿縁を、源氏の院は残念にも淋しくもお思いになります。それも人にお話しになれるようなことではありませんので、お気持が晴れないのでした。
東宮の御生母の明石の女御は、その後たくさんの御子をお産みになられて、いよいよ帝の御寵愛は並ぶ方もありません。皇族出のお方が引きつづいて、后の位におつきになりそうなのを、世間の人々が不服に思っているのにつけても、冷泉院の后の秋好あきこの む中宮は、これという理由もないのに、 いて后の位に自分を即かせて下さった源氏の院の御厚意をお思いになりますと、歳月が経つにつれていっそう源氏の院に、限りなく有り難く感謝申し上げていらっしゃいます。
冷泉院は、かねてからの御希望通りに、これまでとちがって自由に御幸なさりながら、御退位後のほうが、ほんとうに結構な、理想的なお暮しぶりでいらっしゃいます。
新しい帝は、女三の宮の御事を、格別お心にかけられて、何くれとなく案じていらっしゃいます。
この姫宮は、世間の人々の誰からも大切なお方と尊敬されていらっしゃいますが、紫の上の御威勢にはお勝ちになれません。年月が経つにつれて、源氏の院と紫の上の御関係はますますこまやかに仲睦まじくなられ、何の御不満もなく、いかにもしっくりとしていらっしゃいます。けれども、紫の上は、
「もうこれからは、こんなありふれた俗な暮らしではなく、心静かにお勤めもしたいと思います。この世はもうこの程度のものと、すっかり見極めたような気のする年齢にもなってしまいました。どうかわたしの願いをお聞き入れになって、出家をお許し下さいませ」
と、真剣な表情でお願いする折々もあります。源氏の院は、
とんでもない辛いことをおっしゃる。出家は、わたしこそ前から深く望んでいることなのに、後に残されたあなたが淋しくなるだろうし、いままでとは打って変わった御境涯になられはしないかと、その御様子が心配でならないからこそ、出家できないでいるのですよ。わたしがいつか本懐を遂げた暁には、あなたのお好きなようになさればいい」
とばかりおっしゃって、いつも反対なさるのでした。
明石の女御は、紫の上だけを、本当の生みの母親のようにお立てになりお仕え申し上げます。実母の明石の君は、蔭のお世話役に甘んじて、謙遜して分を守っていらっしゃるのが、かえって将来頼もしく見えて結構なことでした。尼君も、どうかすると、こらえきれぬうれし涙がこぼれ落ちるのを、しきりに拭くので、目のふちを赤くただ れさせて、長生きをして幸福な年寄りの、見本のようになっていらっしゃいます。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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