〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/12/07 (水) 

若 菜 ・上 (四十二)

寝殿の階段に面して咲いている桜の木蔭に、人々が寄って、花のことも忘れて蹴鞠に熱中しているのを、源氏の院も螢兵部卿の宮も、隅の高欄こうらん に出て御見物なさいます。
日頃の精進の手練てだ れの技も披露され、 る回数が次第に多くなるにつれ、高官の人々も熱中しすぎて走り回り、冠の額際が少しゆる んでいます。夕霧の大将も御身分をかんがえてみれば、いつにない羽目の外しようだと思われますが、見た目には誰よりも一段と若々しくて、美しく見えます。桜がさね直衣のうし のやや柔らかくなったのに、指貫さしぬき の裾のほうが少しふくらんでいるのを心持だけ引き上げていらっしゃいます。それでいて軽々しくは見えません。何となく爽やかな気どらないその姿に、雪のように桜の花がふりかかります。夕霧の大将はそれをちらと見上げて、たわ んだ枝を少し押し折り、階段の中段のあたりに腰をおかけになりました。
柏木の衛門の督が続いて来て、
「花がしきるに散るようですね、風も桜をよけて吹けばいいのに」
などおっしゃりながら、女三の宮のおいでになるお居間の方を流し目に見ると、例のように、格別慎み深くもない女房たちのいる気配がして、色々の衣装の袖口や裾を御簾みす の下からこぼれ出させています。その姿が物の隙間からほの見えたりするのが、 く春に手向たむ ける幣袋ぬさぶくろ かと思えます。
御几帳などもだらしなく隅の方に片寄せてあり、女房たちも御簾の近くに集まっていて、何となくなまめかしく、近づき易い感じがします。そこへ唐猫からねこ のとても小さくて可愛らしいのを、それよりやや大きな猫が追いかけて、急に御簾の端から走り出て来ました。女房たちがおびえて立ち上がり、うろたえて動き廻り、ざわざわときぬ ずれの音をもの騒がしいほど立てている気配が耳騒がしく感じられます。
猫はまだよく人になつかないのか、たいそう長い綱を付けていましたが、それをほかのものを引っかけてまきついていました。逃げようとして猫が引っぱるうちに、御簾の横裾がまくれ上って、内部なか が丸見えになるくらい引き開けられてしまいました。すぐにそれを引き下ろそうとする気転のきく女房もいません。その柱の側にいた女房たちも気が動転している様子で、ただおどおどしているばかりです。
几帳のわき から少し奥まったあたりに、袿姿うちきすがた でお立ちになった人が見えます。そこは階段から西へ二つ目の柱間はしらま の東の端なので、隠れようもなくありありと見通せます。紅梅襲こうばいがさね でしょうか、濃い色薄い色を次々に幾重にも重ねたものが、色の移りもはなやかに、まるで紅草子そうし小口こぐち のように見えます。上にお召しなのは桜襲の織物の細長ほそなが なのでしょう。御髪みぐし の裾まで鮮やかに見えています。御髪は糸を りかけたように後ろになびき、その裾がふっさりと切り揃えられていて、たいsぷ可愛らしい感じがして、お身丈より七、八寸ばかりも長いのでした。
ほっそりと小柄でいらっしゃるので、お召物の裾が長々と引いており、まるでお召物ばかりのようで、その御容姿や、御髪のふりかかっていらっしゃる横顔など、言いようもなく気高く可憐なのでした。夕暮の薄明かりなので、部屋の内はぼうっと霞んでいて、奥のほうが薄暗くなっているようなのが、何とも物足りなく残念です。
蹴鞠に夢中の若い公達が、鞠に当たって花の散るのを惜しみもせず挑戦している様子を見物しようと夢中になり、女房たちは、奥が丸見えになっているのを、すぐには気づくことが出来ないのでしょう。
猫がしきりに鳴きますので、それを振り返って見ていらっしゃる女三の宮の表情や、身のこなしなど、なんとおっとりした、若々しく可愛らしいお方だろうと、柏木の衛門の督は、とっさに見てとっていました。
夕霧の大将もそれに気づいて、たいそうはらはらなさるけれど、御簾を直しにそっと近づくのも、かえってひどくはしたないように思われるので、女房たちに気づかせようとして、ただ咳払いをなさいますと、女三の宮はそっと奥へお入りになりました。実は、夕霧の大将御自身のお心にも、それがひどく心残りに思われるのでしたけれど、猫の綱が解かれて御簾が下りましたので、思わず溜息をおつきになります。
ましてあれほど心を奪われている柏木の衛門の督は、胸がいっぱいになって、あれは女三の宮以外のどなたでもない大勢の中で、はっきりとそれと分かる袿姿うちきすがた からしても、ほかの女房たちとは、紛れようはずもなかったその方の御容姿が、心に焼きついてしまったのでした。柏木の衛門の督は何気ないふうに装っていましたけれど、どうしてあのお姿を見逃したわけがあるだろうと、夕霧の大将は女三の宮のために困ったことになったとお思いになります。
衛門の督は切ない気持の慰めに、仔猫を招き寄せて抱き上げますと、とても芳しい移り香がしていて、可愛い声で鳴くのにも、これがあの宮ならと、恋しいお方に小猫を思いなぞらえていらっしゃるのも、何とも好色めいたことです。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next