〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/12/01 (木) 

若 菜 ・上 (三十八)

「年を取って、世の中のことが、何かと分かってくるにつれて、なぜか妙に恋しく思い出されてならなかったお人柄だが、深い夫婦の契りを交わした仲の尼君は、どんなに感慨深いことだろう」
などとおっしゃるので、明石の君は、あの夢物語をお話ししたら、源氏の院は何か思い当たられることもおありになるのではないかと思って、
「何とも不思議な梵字ぼんじ とやらいう字のような筆跡のようでございますが、あるいはお目にとめていただけるようなこともあろうかと存じまして、お目にかけるのでございます。わたしどもが都へ参ります時に、これが最後と別れましたが、やはりまだせつない未練は残っているのでございました」
と言って、風情よく泣きしおれていらっしゃいます。源氏の院は、入道の手紙をお取り上げになって、
「この字を見ると、たいへんしっかりしておられる。まだ老いほう けてなどもいないようだ。筆跡や、その他すべての技量も、とりわけ達人と言ってよい人だったが、ただ処世術の心掛けだけは上手うま いとはいえなかったね。あの人の先祖の大臣は、たいそう賢明で、めったにはないほどの忠誠を尽くして、朝廷に仕えておられたのに、ちょっとした行き違いがあって、その報いで、こんなふうに子孫が滅びたのだなどと世間では言っていたようだが、娘の筋でははっても、あなたがこうしている以上、まったく子孫が絶えたとは言えない。それも入道の長年の勤行の功徳によるものだろう」
など、度々涙を押し拭われながら、この手紙の夢物語の書かれたあたりにお目をとどめていらっしゃいます。
「入道のことを、変な偏屈者で、むやみに大それた高い望みを持っている人物と、世間の人も非難し、また自分としても、かりそめにしろ軽率な振る舞いをしたものだと、思ったのに、この姫君が生まれたので、その時、前世からの深い契りがあってこそ、ようやく思い知ったのだった。目のあたりに見えない遠い将来のことは、五里夢中の思いでずっときたものだけれど、さてはこうした夢を頼りにして、むりやりわたしを婿にと望んだのだろう。わたしが無実の罪でひどい目にあい、田舎にさすらって行ったのも、この姫君一人がお生れになるためだったのだ。入道はいったい、どんな願いを心中にたてていたのだろう」
と知りたくて、心の中で拝みながら願文をお受取になるのでした。そして明石の女御には、
「これには、ほかにも一緒に添えてさし上げるものがあります。そのうちまたお話し申し上げましょう」
とおっしゃいます。そのついでに、
「今はこうして昔の事情もいくらかお分かりになったでしょうが、それにつけても紫の上の御好意をあだ おろそかにお思いになってはなりませんよ。もともと親しいのが当然の夫婦の仲や、切っても切れぬ親子や兄弟などのむつ まじさよりも、他人がかりそめのほんの少しの情けを示したり、一言でも優しい言葉をかけてくれたりするのは、並々のことではありません。まして、あなたのお側に、実の母君がこうしてずっと付き添っておられるのを見ながらも、紫の上は最初の心持を変えず、大切に深くあなたを思っていらっしゃるのですから。
昔からある世間の継母ままはは 話の例を見ても、 『継母というのは上べはいかにも可愛がってくれるようにするけれど』 と、継子が小賢こざか しく気を廻すのは、利口そうに見えるけれど、たとえ継母が、自分に対して内心では邪険な心を持っていたとしても、間違ってもそうはとらないで、こちらは表裏なく素直に仕えていたら、継母の方でも思い直して可愛く思い、どうしてこんな優しい子を憎んで辛くあたれよう、そんなことをしては、罰が当たると思って改心することもあるでしょう。昔から特別な仇敵というのでないなら、自然に仲直りをした例がいくらもあったはず です。それほどでもないことに、かど を立てて難癖をつけ、無愛想で人にそっけなく当たるような性質の人は、たいそう打ち解けにくくて、思いやりがない人というべきでしょう。わたしはそれほどたくさんの女の人を知っているわけでもないけれど、これまで人の心の様々な動きを見ますのに、育ちがわかる教養も身につけた人でも、それぞれで、まあ期待外れでない程度の心得は持っているようです。誰での皆長所があって、全く取り柄がないということはないものの、だからといって、また特に、こちらが本気で自分の妻として選ぶとなると、これがなかなかないものです。ただほんとうに素直で心に癖がなく、人柄のよいという点では、こちらの紫の上だけでしょうね。この人こそおおらかなひろ い心の人といえるでしょう。いくら人柄がよくて、あまりつつしみに欠け、頼りないのも、困ったものですね」
と、紫の上ことばかりおっしゃるので、ほかの方々のことは、およそ想像されるのでした。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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