源氏の院は、それまで女三の宮のところにいらっしゃいましたが、境の御襖
から、いきなりこちらへおいでになりました。とっさのことで、明石の君は入道の手紙を隠すことがで出来ず、御几帳きちょう
を少し引き寄せて、御自身もその陰に少しお隠れになりました。源氏の院が、 「若宮はお目覚めかな。少しの間でもお顔を見ないと恋しいものだから」 とおっしゃっても、明石の女御はお返事もなさいませんので、明石の君が、 「紫の上にお渡しなさいました」 と申し上げます。 「それは怪け
しからん。あちらでは若宮を一人占めにされて、紫に上は懐から少しも放さずあやしていらっしゃるので、お召物に皆おしっこをかけられて、しょっちゅう着換えているようですよ。どうしてそう軽々しくお渡しになるのか、あちらからこちらへ若宮を拝見に来ればよいのに」 とおっしゃいます。明石の君は、 「まあ、なんて意地悪なお言葉ですこと。たとえ女宮さまでいらっしゃっても、紫の上にお世話していただくのが結構でございましょう。まして男宮さまは、この上なく高貴な御身分でいらっしゃっても、気楽にお世話申し上げてよいお方だと思っておりましたのに、御冗談にも、そんな水臭いことを知った風におっしゃるものではありませんわ」 と申し上げます。源氏の院はお笑いになって、 「それでは若宮のことはお二人に任せて、わたしは構わないのがいいのだね。この頃はみんなですっかりわたしを除の
け者しして、隠しだてばかりして、おせっかいだなどと言われるのも大人気ないことです。まずあなたがそんなふうにこそこそ隠れて、わたしを冷酷におきおろしているとは」 とおっしゃって、御几帳を引きのけられますと、明石の君は母屋もや
の柱に寄りかかって、すっきりと美しく、気にひけるほど奥ゆかしい御様子でいらっしゃいます。さっきの文箱も、あわてて隠すのもみっともないので、そのままにしていらっしゃいます。源氏の院は、 「あれは何の箱です。何か深いわけがありそうだ。懸想人けそうびと
が長い恋歌を書いてしっかり封じ込めてあるような感じがする」 とおっしゃいますと、明石の君は、 「まあ。いやですこと、御自分が今風に若返られたお心のせいで、わたしなど、伺っても分からないような悪い御冗談を時々お口になさいますのね」 と、苦笑していらっしゃいますけれど、何やら、お二人の御様子が妙にしんみりしていらっしゃる雰囲気もありありと見えます。源氏の院がおかしいと、疑っていらっしゃる御表情なので、明石の君は面倒なことになると思って、 「実はあの明石の岩屋いわや
から、内々でいたしました御祈祷の目録や、ほかのまだ願ほどきの出来ていない祈願文などがありましたのを、あなたさまにもお知らせ申し上げる機会があれば、御覧いただいたほうがよいと、父入道が送ってないったのです。今はまだその折でもありませんので、お目にかける必要もないと存じますが」 と申し上げますと、源氏の院は、なるほどそれなら泣くのも無理はないとお思いになって、 「あの入道はその後、どんなにきびしい修行を積まれたことか。長生きして、多年勤行ごんぎょう
をした功徳で、消滅した罪障も数知れぬことだろう。世間でも、たしなみがあるとか聡明な僧侶といわれている人々をよく見るにつけても、俗世の名利に執着して、煩悩ぼんのう
の濁りが深いせいか、才智の方面ではいかに優れていても、それには限度があって、とても入道には及びもつかない。ほんとうにあの入道はいかにも悟りが深く、それでいてさすがにどこか風格の備わって人だった。聖僧ぶって、俗世をすてきったいうふうでもなかったが、心の奥ではすっかり皆、この世ならぬ極楽浄土へ自在に往き来しているように昔は見えたものです。まして今では、気持を乱す係累もなく、解脱し切っていることだろう。気ままに出来る身なら、こっそり行ってぜひにも会いたいものだが」 とおっしゃいます。明石の君が、 「今ではあの住んでおりました家も捨てて、鳥の声も聞こえない山奥に籠っているそうでございます」 と申し上げますと、 「ではこれはその遺言なのだね。手紙はやり取りなさっているのか。尼君はどんなお気持でいられることやら。親子の仲よりも、夫婦の仲というものは、また格別だから」 とおっしゃって、涙ぐんでいらっしゃいます。 |