若 菜
・上 (三十六) | 東宮からは明石の女御に早く参内なさるようにとしきりに御催促がありますので、 「東宮がそうおっしゃるのもごもっともですわね。若君御誕生という珍しいことまで加わっているのですから、どんなに待ち遠しくお思いでしょう」 と、紫の上もおっしゃって、若宮を内々東宮御所におつれ申し上げようとお心づかいをなさいます。明石の女御は、東宮からなかなかお暇がいただけなかったのにお懲りになって、こんな機会に、もうしばらくお里にいたいとお思いになります。年端
もゆかないお身体で、あんな恐ろしい御経験もなさいましたので、少しほっそりと面痩おもや
せなさって、たいそう艶やかな御様子でいらっしゃいます。 「まだこんなふうに産後の肥立ひだ
ちが元通りでないのですから、もう少しこちらで御養生なさいました上で」 など、明石の君はお可哀そうだとお思いになりますが、源氏の院は、 「こんなふうに面やつれしてお目にかかるのも、男にはかえって情愛の湧くものなのだ」 などとおっしゃいます。 紫の上がお帰りになられた夕暮、あたりに人少なでひっそりしている折に、明石の君は女御のお前にお伺いになって、あの文箱をお見せになります。 「何もかもすっかり思い通りになられ、国母とおなり遊ばすまでは、こんなものは隠しておくべきなのでございますが、人の命は無常なものですから、気がかりになりまして、何もかも御自分で御判断のおでき遊ばすようになる前に、わたしにもしものことがございましたら、臨終の時、必ずお逢いいただけるような身分でもございませんので、やはりまだ気の確かなうちに、どんなつまらないことでもお耳にお入れしておいた方がよいかと考えまして、解りにくい、変な筆跡ですけれど、この手紙も御覧下さいませ。この願文は、お側の御厨子みずし
などにお置きになって、将来、立后なさいました折には必ずお読みになられまして、この願文に書いてある願ほどきのことはなさって下さいませ。気心の知れない人には決してこの件はお話しになさってはなりません。あなたの御将来も、もうここまでになられたのをお見届けいたしましたので、わたしも出家したいと思うようになりました。何かとあせって気がせきます。紫の上のお心づくしを、決しておろそかにお思いになってはなりません。ほんとうに世にも稀な深い美しいお心でいらっしゃるのが分かりましたので、わたしなどよりはずっと長生きして頂きたいものです。もともとわたしがあなたのお側にお付き添い申し上げるにつけても、御遠慮しなければならない身分でございますから、紫の上に最初からお任せ申し上げていたのですが、まさかこうまで行き届いてお世話下さるまいと、これまで長年、やはり世間並みに考えておりました。けれども今は、来し方、行く末を考えてみて、あの方にお頼りすることが、何よりだと、すっかり安心できる気持にまりました」 など、たいそう細々とお話しになります。 明石の女御は涙ぐまれながらお聞きになります。このように当然実の母子として睦むつ
まじくしていいような女御の御前でも、明石の君は、常に礼儀正しい態度で狎れ狎れしくはなさらず、ずいぶん控え目にしていらっしゃる御様子です。 入道の手紙の文章は、いやに堅苦しく武骨で、親しみにくいものです。その上、年数がたてば黄ばんだ陸奥紙みちのくがみ
の、厚くぼてぼてしたのに、五、六枚書いてあります。さすがにその紙には香こう
がたいそう深く薫た きしめられていました。 明石の女御はそれをお読みになって、ひどくあわれにお感じになって、涙で額髪が次第に濡れてゆきます。その御横顔は、上品ななかにもいかにも美しくあでやかでした。 |
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