若 菜
・上 (三十五) | 尼君はしばらくして涙をおさめてから明石の君に、 「あなたのお蔭で、嬉しく晴れがましいことも、身に余るほど味あわせていただき、またとない幸せだと有り難く思っております。けれどもまた、あなたのために悲しく暗い思いをしたことも人並み以上でした。人数にも入らない身分でも、長年住み馴れた都を捨てて、あんな田舎に落ちぶれ住んでいただけで、人並みでない不運な宿縁なのだと思っていましたが、まさか生きているこの世で遠く離れて別れ別れに暮らすようになる夫婦仲だとは、思いもかけませんでした。必ずあの世でも同じ蓮の上に住もうと、来世の望みまでかけて、夫婦で長い歳月暮してきて、突然、こんな思いもかけぬことが起こり、一度は捨てた都にまた舞い戻ってまいりました。それにつけても生き甲斐のあるあなたの今のお幸せなお身の上を拝見して、嬉しいながらも一方では、入道のことが気がかりでいつも悲しさの絶えたことはなかったのです。それなのにとうとう入道とはこうして逢うこともなく離れたまま、今生
の別れになってしまったのが、残念でなりません。 あの人は俗世で勤めていた頃でさえ、人と変わった偏屈者だったため、世をすねていたようでしたが、まだ若かったわたしたちは、互いに頼りにしあって、夫婦仲もしっくりしていたのです。二人ともほんとうに心から深く信じあっていましたのに、何の因果で、すぐ便りも聞けるこうした近くにいながら、これほど辛い別れをしなければならないのでしょう」 と言いつづけて、世にも悲しそうに泣き顔になられます。明石の君もひどく泣きむせばれて、 「人より優れた将来の幸運など、わたしは考えてもいません。日陰者の身には、どうせ何かにつけ表立って晴れがましい生き甲斐などある筈はず
もないのですから、こんな悲しい生き別れの状態で、父上の生死の御消息も分からないままになってしまうのかと思うと、それだけが残念でたまりません。何もかもそうなるような父上の宿縁のせいと思いますが、そんなふうに山奥に入っておしまいになれば、無常の世ですもの、そのままお亡くなりになってしまったら、どうしようもないではありませんか」 と言って、夜通し悲しいことをあれこれ話しつづけて、夜を明かしておしまいになります。 「昨日も、女御のおそばにいるわたしを源氏の院が見ていらっしゃったのに、急にこちらへ隠れたように消えてしまっては、軽率な振舞いと思われるでしょう。わたし一人だけのことなら、何の遠慮もいらないのです。でもああして若宮に付き添っていらっしゃる女御の御ためを重いますと、不都合があってはお気の毒なので、気ままに振舞うわけにもまいりません」 と言って、明石の君は未明にお帰りになられます。尼君は、 「若宮はどうしていらっしゃいますか。どうしたらお目にかからせていただけるのかしら」 と言っては、また泣きだします。 「そのうちお目にかかれるでしょう。女御も、ほんとうにあなたのことをなつかしがって思い出されては、お話しになりますよ。源氏の院もお話しのついでに、 『もし御世替わりして、万事自分の思うようになる日が来るなら、縁起でもない話しをするようだけれど、尼君にはその時分までぜひ長生きして頂きたいものだ』 とおっしゃっておいでのようです。どんなお考えがおありなのか、分かりませんけれど」 とおっしゃいますと、尼君はもうにこにこして、 「ほんに、そうそう、ですからわたしは嬉しさも悲しさも、世に例のない運命を持っているのですよ」 と、喜んでいます。入道の遺書の入った文箱は女房に持たせて、明石の君は女御の御殿へお戻りになりました。 |
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