〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/11/27 (日) 

若 菜 ・上 (三十三)

あの明石の入道も、若宮御誕生のことを伝え聞いて、あのような悟りすました心にも、たいそう嬉しくて、
「今こそ、この現世の境界から、迷いなく離れ去って行くことができる」
と、弟子たちに言い、住んでいた家を寺にして、あたり一帯の自分の田畑などは、すべて寺領にしてしまいました。この国の奥の地方に、人も通えないような深山があり、以前から所有していながら、いよいよそこに籠ってしまった後は、再び、人に会ったり、自分の消息を知られるべきでないと考えると、ただ少し気がかりなことが残っていましたので、いままでは明石に留まっていたのでした。それについても念願の叶った今は、もう心残りはないと、神仏におすがりして山奥に移ったのでした。
最近の数年は、京に特別の用でもなければ、使いの人も出そうとはしませんでした。京の方から明石へやった使いの者ぐらいにことづけて、ほんの一行ほどでも尼君には、その折々の便りはしていました。しかし今度は、いよいよ俗世を捨て去る最後の別れに、手紙を書いて明石の君にさし上げました。
「ここ幾年というものは、同じ き世に生き長らえて来ましたが、何のことはない、こうして生きながら別の世界に生まれ変わったようにあえて考えながら、特別の用事のない限りは、お便りのやりとりもいたしませんでした。仮名書きの手紙を読みますのは暇がかかって、念仏も怠るようになり、無益なことですから、お便りもさし上げませんでしたが、人づてに承りますと、姫君は東宮に入内じゅだい なさって、男宮がお生まれになったとのこと、心から深くお喜び申し上げます。と申しますのは、自分はこういうしがない山伏の身で、今更、この世の栄達を願う気もございません。これまでの永い年月、未練がましく、六時ろくじ勤行ごんぎょう にも、ただあなたのことばかりを心にかけて、極楽往生の願いさえさし置いて、ただただあなたの御幸運ばかりをお祈りいたしました。あなたがお生まれになろうとしたその年の二月のある夜の夢に見ましたのは、わたしは須弥山すみせん を右の手に捧げていました。山の左右より月と日の光が明らかにさし出でてこの世を照らしています。わたしは山の下の蔭に隠れて、その光に当たらないのです。やがて山を広い海に浮かべておいて、わたしは小さな舟に乗って西の方、極楽浄土をさして漕いで行く。そんな夢を見たのです。
その夢の覚めた翌朝からは、数ならぬこの身にも将来への望みが生じたのですが、どのようなことによって、そんなたいそうな幸運を待ちもうけることが出来ようかと、内心では思っておりましたが、その頃より妻の胎内にあなたが宿られまして、それから後は、俗世間の書物を読みましても、仏典の真意を探ってみましても、夢は信ずべきものだということが、沢山書いてありましたので、わたしのような賎しい者の懐のうちにも、あなたをお抱き申し上げ、もったいなく思いながら大事にお育て申し上げました。しかし何としても力不足の身で思案に余りまして、こんな田舎に下って参ったのです。
今度はまた、この播磨はりま の国主に落ちぶれまして、老いの身で今更二度と都へは帰るまいと決心して、この明石の浦に長年暮していた間にも、あなたの御運ばかりを頼みと思っておりましたので、心ひそかに多くのがん を立てたのでした。その大願がかない、今こそそのお礼詣りも無事にお出来になれるように、望み通りの御運がめぐって来たのでございます。姫君が国母となられて、宿願が果たされました時は、住吉すみよし御社みやしろ を始めとして、がん ほどきのお礼詣りをなさいます。もはや何を疑うことがありましょう。この一つの願いが近い将来成就してしまうのですから、わたしもはるか西方の十万億土を隔てた極楽の九品くぼん の蓮台の上に生まれますことは、疑いなくなりましたので、今はただ弥陀みだ来迎らいごう をお待ちするだけです。そのお迎えの来る夕べまでは、水も草も清らかな山の奥で、勤行ごんぎょう に専念しようと存じまして、山奥深く引き籠ってしまうところです」

光いで 暁ちかく なりにけり いまぞ見し世の 夢語りする
(光明がさし出る暁が近いように 東宮が御位につき 明石の女御が国母となる日も 近くなってきた今こそ 昔見た夢物語をいたします) 
と書き、日付を記してありました。
「私の死ぬ月日など、決してお心におかけ下さいますな。昔から親の死の際に着る喪服の藤衣ふじごろも など、どうしてお召しになる必要がありましょう。ただ御自身を、神仏が変化へんげ してこの世にあらわれた者とお考えになって、この老法師のためには功徳になることをして下さい。この世の楽しみを味わっている時にも、後世のことをお忘れにならないように、いつも願っている極楽にさえわたしが行っておれば、かならずまたお逢いすることも出来ましょう。この娑婆しゃば の外にあるあの彼岸にたどり着いて、早く再会しようとお思い下さい」
したた めて、あの住吉神社に立てた数々の願文がんもん などをすべて、大きな沈香じんこう の木で造った文箱ふばこ に入れ、しっかり封をして明石の君にさし上げられました。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next