〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/11/24 (木) 

若 菜 ・上 (三十一)
女御がたいそうしんみりと物思いに沈んでおいでになるところへ、明石の君が参られました。日中の御加持かじ で、あちらこちらから験者たちが集まって来て、騒々しく声をからして祈祷していますので、女御のお前には女房たちも控えておりません。尼君はそれでいい気になって、ずいぶんお側近くにお付きしています。
「まあみっともない。低い几帳でも引き寄せて姿を隠しておいでになればいいのに。風がひどくて、つい几帳のほころ びの間から見えることがあるかもしれないのに、まるで医者か何かのようにお側近くに寄り添って、ほんとうにお年をとり過ぎましたわね」
などと言って、明石の君は、はらはらしていらっしゃいます。
尼君は自分では結構気取って振舞っているつもりらしいのですけれど、老い呆けてしまって耳もよく聞こえませんので、
「ああ」
と言って、小首をかしげていらっしゃいます。けれども実際はまだ、それほどの年ではなくて、六十五、六歳ぐらいなのでした。尼姿がたいそうこざっぱりしていて、上品な様子で、目もとが涙でつや やかに濡れて光り、まぶた を泣きはら らしている顔付きなどが変で、どうやら昔を思い出している風情なので、明石の君ははっとして、
「大昔の間違いだらけのお話しでもいたしましたのでしょうか。尼君はこの世のこととも思われないようなことを、よく覚え違いして、ありもしなかったことを取りまぜて、あやしげな昔話もあれこれお話し申したのではないでしょうか。昔のことは夢のような心地がいたします」
と苦笑しながら女御を御覧になりますと、たいそうあでやかでお美しくて、いつもよりもひどく沈み込んでいて、物思わしそうな御様子にみえます。自分の産んだ子とは思われないほど気高くて、もったいなく思われますのに、尼君があれこれと不憫ふびん なことをお聞かせして、悩んでいらっしゃるのではないだろうか、今ではもうこれ以上はないという后の位を極められた時にお話し申し上げ、お知らせしようと思っていたのに、もともと、本当のことをお聞きになられたとしても、卑下なさるようなお身の上ではないけれど、今お聞きになっては可哀そうに、さじ気落ちしていらっしゃることだろうと思われます。
御加持が終って、験者たちが退出しましたので、明石の君は水菓子などを女御のお側近くにさし上げて、
「せめてこれだけでも召しあがれ」
と、ほんとうにお可愛そうに思っておすすめします。
尼君は女御をただもうお美しく可愛らしいと拝するだけで、涙を抑えることができません。顔は笑って、口もとなどは見苦しくひろがっていますが、目もとのあたりは涙に濡れて、泣き顔になっています。それを見て明石の君は、なんてみっともないと、目くばせして下がるよううながすのですが、尼君は聞きもしないで、
おい の波 かひある浦に 立ち出でて しほたるるあまを 誰かとがめむ
(年をとって老いこんだ今 晴れがましい所へ出て 嬉し涙にくれている この尼のわたしをいったい誰が 咎めることが出来ようか)
「昔にも、こんな年寄は、大目に見て何でも許してもらえたものですよ」
と申し上げます。女御は御硯箱の中の紙に、
したはしる あまを波路なみじ の しるべにて 尋ねも見ばや 浜の苫屋とまや
(泣き濡れていらっしゃる 尼君のあなたを道案内に 波路を越えてはるばると 尋ねても見たい 明石の浦のその家を)
とお書きになります。明石の君もさすがにこらえかねて、お泣きになるのでした。
世を捨てて 明石の浦に すむ人も 心の闇は はるけしもせじ
( き世を捨てて煩悩を断ち 明石の浦にただひとり 住んでいる父入道も 孫子まごこ を思う心の闇ばかりは 晴らしかねておりましょう)
など申し上げて、涙を紛らしていらっしゃいます、女御は入道に別れを告げたという、その朝のことも、夢の中にさえ思い浮かべることができないのは、いかにも残念なことだとお思いになります。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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