〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/11/23 (水) 

若 菜 ・上 (三十)
新しい年になりました。明石の女御のお産がお近づきになりましたので。正月の上旬から、御安産の御修法みずほう を絶え間なくおさせになります。
多くの寺々や神社の御祈祷もまた、数知れぬほどさせていらっしゃいます。
源氏の院は、かつて葵の上のお産で不吉な御経験がおありなので、お産というものはひどく恐ろしいものだと、身にしみていらっしゃいます。紫の上が御出産なさらないのは残念でもの足りなくはあるけれど、そのかわり恐ろしい思いをしないですむのを喜んでいらしゃいます。
明石の女御は、まだ、いたいたしいほどのお若いお年頃なので、どんなことになられるだろうかと、前々から御心配していらっしゃいました。
二月に入ってから、どうしてか御容態が変わってお苦しみになりますので、どなたも皆御心痛の御様子です。陰陽師おんみょうじ たちも、場所を変えて御用心なさった方がよいと申し上げますので、別の遠く離れた所では心配ですから、あの明石の君のお住まいの西北の町の、中の対にお移し申し上げました。こちらは寝殿などはなく、ただ大きな対の屋が二棟あって、いくつもの渡り廊下を廻らせています。
御修法の檀を隙間なく作り、霊験あらたかな験者たちが集まって、大声で祈祷します。明石の君は、このお産によって自身の運命の未来もはっきりするという瀬戸際でえすから、気が気でなくひとかたならず緊張していらっしゃいます。
あの女御の祖母にあたる大尼君も、今ではすっかり老いほう けてしまっていることでしょう。それでもこうしたおめでたい女御の様子を拝見するのは夢のような気持がして、一日も早くお産を待ち遠しがり、お側近くに参上して、親しく付き添ってお仕えしています。
これまで母君の明石の君は、このように女御にずっとお付き添いになっていらっしゃいましたが、昔のことなど、決してまともにお話しなさらなかったのに、この尼君は、喜びの余り女御のお側に参っては、いつも涙と共に、震え声で、昔々のいろいろなことをお話し申し上げます。
女御ははじめの頃は、変な気味の悪い年寄と思われて、怪訝けげん にその顔を見つめていらっしゃいましたが、こういう祖母がいるということだけは、ほの かにお耳にしていらっしゃいましたので、やさしくお相手をなさいます。尼君は女御が明石でお生まれになった時のことや、源氏の君が、明石の浦にいらっしゃった頃の御様子をお話しします。
「いよいよお別れだと、源氏の君が京へお帰りになられた時には、誰も彼もが気も動転してしまい、もうこれでおしま いだ、やはりこれまでの御縁だったのだと、途方に暮れて悲しみに沈んでしまいましたのに、姫君がお生まれになって、こうしてわたしどもを助けて下さった御宿縁を思いますと、有り難くて胸が一杯でたまりません」
と、ほろほろと泣きますので、女御は、そうだったのか、そんな悲しい昔のことを、こうして聞かせてもらわなけらば、何も知らないままに過ぎてしまうところだったとお思いになって、お泣きになります。女御はまた、お心の中では、
「自分は、ほんとうは大きな顔をして女御の位になど上れる身分ではなかったのに、紫の上の御養育のお蔭で磨かれて、人なみ以上になり、世間の人々からも、そうつまらぬ者とは思われなくなったのだ。それなのに、自分をまたとない高貴な者のように思い込んで、入内してからも、傍らの女御や更衣たちをないがしろに思い、この上なく思い上がっていたことよ。世間の人々は蔭で何と噂していたことだろう」
など、今はすっかり事情もお分かりになってしまいました。母君のことを、もともと、このように少し劣った家柄の出であるとは御存知でいらっしゃったものの、御自分がお生まれになった時のことなどは、そんな都に遠い片田舎であったなどとは、ご存じなかったのでした。あまりおっとりとしたお育ちのせいでしょうか。それにしてもずいぶん奇妙なぼんやりした話です。
あの明石の入道が、今は仙人のように、すっかり世間離れした暮らしをしているとお聞きになったのも、おいたわしいとお思いになって、あれこれと思い悩んでいらっしゃいます。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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