十月二十三日が精進
落お としの日に当たりました。六条の院には、このように多くの女君たちが隙間なく住んでいらっしゃいますので、紫の上は、日頃自分の私邸と思っていらっしゃる二条の院のほうで、精進落としの御祝宴をなさいました。当日の源氏の院の御衣裳をはじめ、必要ないろいろの支度も、すべて紫の上ばかりがお引き受けになります。他の女君たちも御自分から進んで準備の分担をして、御奉仕なさるのでした。 二条の対の屋は、女房たちの部屋部屋にあててあったのを取り払って、殿上人、家司けいし
たち、事務官や下役までの席にして、立派に用意してあります。 寝殿の放出はなちいで
を、式場にして例のように飾り付けて、螺鈿らでん
細工の施された椅子を立ててあります。 神殿の西の間に、御衣裳を載せる机を十二立て並べ、夏冬のお召物、御夜具などが積まれ、仕来り通りにその上に、紫の綾絹あやぎぬ
の覆おお いがきちんとかけてあって、中の物は、あからさまには見えません。 源氏の院のお前には、置物を載せる机が二脚据えられ、唐渡りの、羅ら
の裾を濃くしたぼかし染めの覆いがかけてあります。 挿頭かざし
の華を載せる台は、沈じん の香木の花足けそく
で、その挿頭は、黄金の鳥が銀の枝にとまっている趣向なのです。これは明石の女御のお受け持ちで、明石の君がお作らせになったものでして、格別に深い味わいの意匠でした。 椅子の後ろに立ててある屏風びょうぶ
四帖は、紫の上の父宮、式部卿の宮がお作らせになりました。ありふれた四季の絵ですけれど、大層凝っていて、珍しい山水や、淵などの景色が目新しくて、風情があります。 北の壁に沿って置物を載せる御厨子みずし
二揃いを置いて、飾りの御調度類が、決まった仕来り通りに載せてあります。 南の廂の間には、上達部、左右の大臣、式部卿の宮をはじめ、ましてそれ以下の方々は、参上なさらない人もありません。庭の舞台の左右に、楽人がくにん
の控える仮屋を幔幕まんまく を張って造り、庭の東と西には、弁当が八十人分、祝儀用の品の入った唐櫃からびつ
は、四十ずつ続けて並べてあります。 午後二時頃、楽人が参りました。舞楽の万歳楽まんざいらく
、皇?おうじょう などを舞って、日が暮れかかる頃に、高麗楽こまがく
の始まりを告げる乱声らぞう が奏され、落蹲らくそん
を舞い出しました。やはりめったに見られない舞ですから、舞の終わりかけた頃、夕霧の権中納言と柏木の衛門の督が庭に下り立ち、引っ込み舞の入綾いりあや
をほんの少しばかり舞って紅葉の蔭に消えて行ったのが名残惜しくて、人々は感動して見飽きぬ感じがしました。 昔、朱雀院に故桐壺院が行幸の折、当時の源氏の中将と頭の中将が舞われた、あの青海波せいかいは
の世にもすばらしかった夕暮のことを思い出された人々は、夕霧の権中納言と柏木の衛門の督の二人が、父君たちに負けずに、それじれ立派に跡をお継ぎになって、親子二代にわたり世間から称讃されていることや、御器量や態度なども、決して当時の父君たちにひけを取らず、官位まどは、むしろ勝っていることなどを、親子の世代の年齢まで数えながら比較しています。やはり前世からの因縁で、このように代々立派な方々が肩を並べるという御両家の間柄だったのだと、感嘆しています。 主人の源氏の院も、感慨深くて、涙ぐまれ、思い出されることがたくさんおありなのでした。 夜になって、楽人たちが退出します。紫の上付きの別当べっとう
たちが、下役たちを引き連れて、禄ろく
の入った唐櫃の側によって、中から一つずつ禄を取り出して次々にお与えになります。いただいた白い衣装などを肩にかけて、築山のわきから池の堤を通り過ぎる光景を遠目に見ますと、千年の寿命を持って遊び合うあの催馬楽さいばら
の鶴の白い毛衣けごろも にも見違えそうです。 音楽のお遊びが始まって、またいっそう感興の深い夜になりました。楽器類は、主に東宮の方で用意して下さいました。 朱雀院からお譲りいただいた琵琶びわ
、琴きん 、帝より拝領なさった筝そう
のお琴こと など、皆、昔が思い出される音色で、源氏の院は久しぶりに合奏なさると、過ぎ去った昔のあの折この折の、故院の有り様や、宮中の出来事などを自然に思い出されます。 故藤壺の尼宮が御在世なら、こうした尼宮の御賀は、必ず自分が率先してお努め申し上げたことだろうに、何一つとして自分の深い心のたけをお見せすることも出来なかったこと、ただもういつまでたっても口惜しく残念に思われます。 冷泉帝も、故母宮のもはやこの世においででないことを、何につけても張り合いがなく、もの足りなくお感じになります。この源氏の院に対してだけでも、本当の父親として、世間の作法通りに父子の礼を尽くしたいのに、それがおできにならないことを、いつも御不満に思っていらっしゃいましたので、今年こそはこの四十の御賀にかこつけて、六条に院への行幸なども御計画なさったいらっしゃいましたが、源氏の院は、 「世間の迷惑になるようなことは、決して遊ばされないように」 と度々御辞退申し上げましたので、残念ながら帝はお取り止めになったのでした。
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