〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/10/31 (日) 

若 菜 ・上 (二十五)

桐壺にいらっしゃる明石の女御は、入内以来ずっとお里へお下がりになれず、東宮からおひま がいただけそうにありません。これまでお気楽にのびのび過ごしていらっしゃった若いお心では、窮屈な宮仕えを苦痛でたまらなくお思いになります。夏頃、御気分がおすぐれにならなかったのに、東宮はすぐには御退出をお許しにならなかったので、女御はほんとうに辛がっていらっしゃいます。どうやらおめでたの悪阻つわり だったようです。まだいたっていたいけないお年頃なので、お産はさぞ大変だろうと誰も皆心配なさるようです。
そのうち女御はやっと御里下がりがかな いました。六条の院では、女三の宮のお住まいの寝殿の東側に、女御のお部屋を御用意なさいました。明石の君が、今では女御に付き添って退出なされて来られたのも、思えばこの上なく幸運なお身の上ということでございます。
紫の上が、こちらの女御のお部屋をお訪ねになりお逢いなされるついでに、
「姫宮にも、仕切りの中の戸を開けて御挨拶申し上げましょう。前々から、そう思っていたのですけれど、ついでにない折にわざわざ伺うのもと、御遠慮申し上げていたのです。こうした機会にお馴染みになれれば、これから気がねもなくなりましょう」
と、源氏の院に申し上げますと、お喜びになってにっこりなさりながら、
「それこそわたしの望んでいたお付き合いですよ。女三の宮は全く子供っぽいお方なので、そのそのおつもりで、何かと安心のいくよう教えてあげて下さい」
と、御訪問をお許しになります。
紫の上は女三の宮よりも、明石の君との対面の方が気の張ることとお考えなさいますので、おぐし を洗いあげ、身づくろいを念入りにしていらっしゃるお姿は、これ以上の方はあるまいとお見えになります。
源氏の院は、女三の宮の方へおいでになって、
「夕方、東のたい におります紫の上が、明石の女御にお逢いするため出かけてくるのですが、そのついでに、こちらにもお近づき申し上げたいといっております。お許しになってお話し合いをしてやって下さい。紫の上は、性格のとてもいい人なのです。まだ若々しくて、お遊び相手としても不似合いではないでしょう」
などおっしゃいます。女三の宮は、
「恥ずかしいこと。何をお話ししたらいいのかしら」
と、おっとりとおっしゃいます。源氏の院は、
「お返事というのは、相手の言うことに応じてお考えになればいいのです。他人行儀な扱いはなさらないように」
と、こまごまとお教えになります。源氏の院は、女君お二人が、仲睦まじくお暮らしになるようにと念じていらっしゃいます。あまりにも無邪気な女三の宮の御様子を、紫の上にはっきりと見られてしまうのも、きまるが悪く恥ずかしいけれど、せっかく逢いたいとおっしゃるのを、邪魔だてするのも具合が悪いとお思いになるのでした。
紫の上は、こうして御対面の為に御自分からお出かけにないながらも、源氏の院の北の方として自分より上の女君があるだろうか、自分の引け目といえば、幼い頃より頼りない身の上を、引き取られ世話をされたということだけなのに、などと考えつづけられて、物思いに沈んでいらっしゃいます。手すさびに字などお書きになっても、自然に浮ぶ古歌も、うれ わしい物思いを詠んだ歌ばかりなので、やはりわたしには心をふさぐ悩みごとがあったのだと、我ながら改めて思いしらされるのでした。
そこへ源氏の院がお越しになりました。先ほど女三の宮や明石の女御などのお顔だちを、それぞれお可愛らしくていらっしゃるものよと御覧になったそのお目で、長年見慣れていらっしゃる紫の上をご覧になって、
「この方が並々の御器量だったら、どうしてこれほどまでに目を奪われることがあろうか、やはりこの人こそは、類ないお美しさだ」
と改めてそのすばらしさに驚嘆していらっしゃいます。この上なく気高く上品で見る人が恥ずかしくなるほど整っていらっしゃる上に、現代風に華やかで、照り映えるような艶麗さや優雅のすべてを一身に集めて、またとない爛熟の女盛りにお見えになります。去年より今年はすばらしく、昨日より今日のほう清新さが増し、いつも今はじめて見るような新鮮な感じがなさるのを、どうしてこうもすばらしいお方だったのかと感心していらっしゃいます。
紫の上が何気なくお書き散らしになった手すさびの紙を、硯箱すずりばこ の下にお隠しになっていらっしゃいましたが、源氏の院はそれをお見つけになって、引き返して御覧になります。御筆跡はそれほど上手ぶって書かれていなくて、達者な中にも可愛らしい感じにお書きになっていらっしゃいます。

身に近く 秋や ぬらむ 見るままに 青葉の山も うつろひにけり
(いつの間にか身近に 秋が来たのかしら 見る間に青葉の山が 紅葉の色に移ってしまった わたしの身にも飽かれる時が来て)
とある歌にお目をとめられて、
水鳥の 青葉は色も かはらぬを はぎ のしたこそ けしきことなれ
(水鳥の青い羽の色は秋になっても 色が変わらないように わたしの心は少しも移らないのに 萩の下葉のようなあなたこそ 何だかおかしいのでは)
など書き添えながら、手すさびをなさいます。何かにつけて悩んでいらっしゃる御様子が、隠していられても自然にちらちら覗かれるのでした。それをさり気なく隠していらっしゃるのが、またとはなくいじらしくて、源氏の院は紫に上をしみじみといとおしくお感じになるのでした。
今夜は紫の上が女御と女三の宮にお逢いに行かれて、源氏の院はどちらの御機嫌もとらなくていいからお暇がありそうなので、あの二条の朧月夜の君のところに、たいそう無理な算段をして、こっそりお出かけになりました。何という不届きな行為かと、内心しきりに反省なさるのですが、どうしても思い止まれないのでした。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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