〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/10/29 (土) 

若 菜 ・上 (二十四)
源氏の院は供人をお呼び寄せになって、あの枝垂しだ れ咲いている藤の花を一枝折らせられました。
沈みしも 忘れぬものを こりずまに 身も投げつべき 宿やど藤波ふぢなみ
(昔あなたゆえに 須磨すま の浦に身を沈ませたことを 今も決して忘れてはいないのに また性懲りもなくあなたに 身も投げてしまいそうです)
たいそうお悩みになって沈み込みながら、高欄に寄りかかっていらっしゃるのを、中納言の君はおいたわしく拝しています。朧月夜の君も、今さらに昨夜の密会がたいそう恥ずかしくて、さまざまに悩み乱れながら、美しい藤の花蔭のような源氏の院がやはりなつかしくて、
身を投げむ 淵もまことの 淵ならで かけじやさらに こりずまの波
(身を投げようとおっしゃる淵も どうせ本当の淵ではなく 偽りに決まっているのに 性懲りもなくその淵の波に 袖を濡らすまいと思います)
まるで若者のするような忍び逢いを、源氏の院も我ながらもっての外のことだとはお思いになりながら、関守の監視のきびしくないのに気がゆるんでか、後の逢瀬のこともよくよくお約束になってお帰りになります。あの昔も、誰よりこの上なく御執心で恋い焦がれていたお気持だったのに、引き裂かれてほんの短い間に途絶えてしまった仲だったので、どうして恋の思いの浅いはず がありましょう。
人目を忍んで六条の院に帰って来られて、こっそりお部屋にお入りになった寝乱れた源氏の院のお姿を御覧になって、待ち受けていた紫の上は、やはりそんなことだったかとお察しになりましたけれど、気づかないふりをしていらっしゃいます。
それがかえってやき もちを焼いてみせられるよりも辛くて、どうぢてこうも見放されてしまわれたのかた、源氏の院は御心配になって、これまでよりもいっそう深い愛情を来世までもと、言葉を尽くして誓われるのでした。
朧月夜の君との昨夜の密会も、決して誰にも漏らしてはならないことなのですが、紫の上は昔の二人の事件も御存じなので、まさかありのままにはおっしゃれないのですが、
「物越しに、ほんのわずかの間のお話しだったので、もの足りない気持がする。何とかして、人に見とがめられないように、もう一度だけでも、ひそかに逢いたいものだ」
と、打ち明け話しをなさいます。紫の上は笑って、
「すっかり若返られた御様子ですこと。今更恋のよりをもどされて浮き浮きなさるなんて、頼る当てもないわたしなんかには、つらくてもうどうなることやら」
とおっしゃって、さすがに涙ぐんでいらっしゃる目もとが、たいそういとしく思われます。
「こんなに御機嫌を悪くされてはつらくてたまらない。お願いだから、思うままにわたしをつね るなり、何なりして、こらしめて下さい。そんな水臭い態度をとるようには、これまでしつ けてこなかったつもりですよ。思いがけない難しい気性になってしまわれたものだ」
とおっしゃって、あれこれと御機嫌をとっていうちに、何もかも昨夜のことをすっかり白状してしまわれたようでした。
女三の宮の方へも、すぐにもいらっしゃられなくて、紫の上の御機嫌ばかり取っておいでになります。女三の宮は、源氏の院がいらっしゃらなくても、一向にお気にされないのに、お世話役の乳母めのと たちが、不平がましく取り沙汰しております。宮御自身が気難しくおとが めになるような御態度なら、紫の上にもましていっそうお気遣いが必要なのですが、こちらはただおっとりとして可愛らしいお遊び相手のように源氏の院は思っていらっしゃいます。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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