〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/10/25 (火) 

若 菜 ・上 (二十三)
夜がたいそう更けていきます。池の玉藻に遊ぶ鴛鴦おしどり の声々などが哀切に聞こえて、しめやかで人影の少ない二条の宮邸の有り様を見ても、昔の盛時と比べ、こうも移り変わる世の中よと思いつづけられます。女に空泣そらな きして見せた平中へいちゅう の真似ではないけれど、ほんとうに涙もろくなってしまうのでした。昔の若かった頃とは違い、万事に落ち着いて余裕ありげにお話しなさるものの、この隔ての襖をこのままにしておかれようかと、引き動かしていらっしゃいます。
年月としつき を なかに隔てて 逢坂あふさか の さもせきがたく 落つる涙か
(長い歳月を隔てて ようやく逢えたというのに こんな関がさえぎっていては わたしの涙も堰きとめがたく あふれ落ちるばかりです)
と源氏の院がお詠みかけになりますと、女君は、
涙のみ せきとめがたき 清水しみず にて ゆきあふみちは はやく絶えにき
(逢坂の関の清水のように わたしの涙も堰き止めがたく あふれつづけますけれど あなたとお逢いする道は とうに絶えてすまいました)

と、きっぱりつれ なくおっしゃいます。それでも昔を思い出されるにつけて、一体誰のせいで源氏の君が須磨に流されるようなあんな恐ろしい大騒動が起こったのかといえば、自分のせいではなかったかとお思いになって、ほんとうに、もう一度くらいならお目にかかってもいいのではないかと、御決心も鈍るのでした。もともと女君は重々しいところがおありでないところへ、あの事件以来次第に世の中のことがわかってきて、過去のことがこうかいされ、公私のことにつけても数限りなく苦労が重なったので、その後ずいぶん自重して、身を慎んで暮してこられたのでした。
それでもこうして昔なつかしい御対面をなさると、あの当時のこともついこの間のことのように思われて、いつまでも気強くつめたい態度を取り続けることが出来ません。今でもやはり、昔どおりに、上品で若々しく愛嬌があります。並々でない世間への気がねと、源氏の院への耐え難い恋の思いとで心もはげしくもだ え乱れて、ともすれば溜息を洩らされる御様子など、今はじめての逢瀬おうせ よりも新鮮な感じがしていじらしく、夜の明けていくのも残り惜しくて、源氏の院はお帰りになる気もなさらないのでした。
朝ぼらけの美しい空に、さまざまな小鳥の声が、たいそううららかに聞こえます。
桜の花はみんな散ってしまって、春の名残に梢の浅緑がかす んでいる木立を御覧になりますと、昔このお邸で藤の宴を開かれたのも、今頃の季節だったと思い出されます。その後歳月がずいぶん過ぎましたが、その当時のこともつぎつぎと感慨深く思い出されるのでした。
中納言の君が源氏の院のお帰りをお見送り申し上げようとして、妻戸を押し開けますと、源氏の院はそこへまたお戻りになって、中納言の君に、
「この花をごらん、一体どうしてこんなに美しい色に染めたのだろう。やはり何とも言えない風情のある色艶だね、どうしてこの美しい藤の下蔭を立ち去ることが出来よう」
とおっしゃって、何としても帰りにく そうにしてためらっていらっしゃいます。
折から山際からさしのぼる朝日のはなやかな光に照り映えて、目もまばゆ いような源氏の院の美しいお姿です。一段と貫禄がお添いになった御様子を長の年月をへだてて久し振りに拝見する中納言の君には、まして世の常の方とも思われません。
「どうして朧月夜の君はこのお方と御結婚なされなかったのだろうか。宮仕えをなさっても限度があって、女御にもなれず、格別の御身分になられなかったわけでもないのに、亡き弘徽殿の大后が、万事につけて力をお入れになり過ぎて、不吉なあんな騒動も起こり、軽々しい浮き名まで立てられて、お二人の仲もそれっきりに終ってしまったのだった」
などと思い出さずにはいられません。
尽きせぬ思いががぞたくさん残っていらっしゃるにちがいないお二人の御物語を、最後までおさせして、いつまでも名残を惜しませてさしあげたいのですけれっど、源氏の院の御身分柄、お心のまま自由におできにならないところへ、多くの人目に触れることもきわめて恐ろしく、油断が出来ません。
日がようようさし上っていくにつれ、心も落ち着かなくなります。廊下の妻戸口に、御車をさし寄せた供人たちも、それとなく小さなせきばら いをしてお帰りを御催促申し上げます。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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