〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/10/16 (日) 

若 菜 ・上 (十九)
女三の宮の御返事は、少し暇どる感じなので、奥へお入りになって紫の上に白梅の花をお見せになります。 「花というからには、これくらいには匂ってほしいものだ。このよい香りを桜に移したなら、もう他の花には見向きもしたくないだろうね」 などとおっしゃいます。
「梅も、いろいろ目移りしない時節に咲くから、注目されるのかも知れない。桜の季節に梅を並べて比べてみたいものだ」
などとおっしゃいますうちに、女三の宮からお返事が届きました。くれない の薄い紙に、目も鮮やかに包まれているので、紫の上の手前、源氏の院はどきりとなさいます。女三の宮の御手蹟がいかにも幼いのを、
「今しばらくは紫の上にお見せしないでおきたいものだ、隠し立てをするわけではないが、軽々しく人に見せたりするのは、女三の宮の御身分柄畏れ多いから」
とお思いになります。それでもひた隠しになさるというのも、紫の上がお気を悪くなさるだろうと、ほんの片端をひろげていらっしゃいます。紫の上はそれを横目に御覧になりながら、側に添い寝していらっしゃいます。
はかなくて うはの空にぞ 消えぬべき 風にただよふ 春のあの雪は
(いらして下さらないので 淋しく頼りなくて 風に漂う春の淡雪が 中空に消えてしまったように わたしもきっと死んでしまうせしょう)
 

と書かれた御手蹟はほんとうに未熟で幼稚です。これくらいのお歳になればこんなにひどく幼げではおありではないものなのに、つい視線が寄せられますけれど、紫の上は見ないふりをしておしまいになります。源氏の院もこれが外の女君が書いたものだったら、
「こんなに下手で」
まど、こっそりお聞かせするところせすけれど、女三の宮だけについては、何といってもお可哀そうなので、ただ、
「あなたは安心していられていいのですよ」
とだけおっしゃるのでした。
今日は。昼間はじめて、女三の宮の方へおいでにないます。格別入念にお化粧なさったお姿を、今あらためて拝見するこちらの女房たちなどは、そのお美しさに御奉公のし甲斐があると、どんなに感激したことでしょう。乳母などといった年とった女房たちは、
「さあどうなることでしょう。このお方お一人はたしかに申し分なくすばらしいお方にちがいないけれど、今に何か心外なことが起こらなければいいけれど」
などと嬉しい中にも取り越し苦労をする者もおりました。
女宮御自身は、ほんとうに可愛らしく、幼い御様子で、お部屋の御調度などがすべて堂々として仰々ぎょうぎょう しいほどいかめしく格式ばっているのに当の御本人は無邪気そのもので、何の分別もない頼りない御有り様で、まるでお着物に埋もれていらっしゃって、お体もないかと思われるほどお小さく華奢きゃしゃ でいらっしゃいます。源氏の院に対しても、特に恥ずかしがったりなさらず、ただ幼い子供が人見知りしないような感じで、気の置けない可愛らしい御様子でいらっしゃいます。
「朱雀院は、男らしくしかめつらしい学問の方は、不得手でいらっしゃると、世間では思っているようだが、趣味的な芸術方面では人に優れていらっしゃるのに、女三の宮をどうしてこうおっとりとお育てになったのだろう。それでも、ずいぶんお心にかけた御秘蔵っ子の内親王とお伺いしていたのに」
と残念に思われますけれど、それもまた可愛い、ともお思いになります。
女三の宮は、何でも源氏の院のお言葉通りに、抵抗もなくただ素直にお従いになって、お返事なども、ひと心に浮んだままを、あどけなくすっかりお口に出しておしまいになるので、とても見放すことなどお出来にならないようです。
「昔の、若さにまかせた自分だったら、こんな女三の宮では嫌気がさしてがっかりしただろうけれど、今は男女の仲も、みなそれぞれ特色があるのだからと、おだやかに考えて、どしらにしても、図抜けて優れているような人は、めったにいないものだと、どの女もそれぞれに長所も短所もあって、はたから見れば女三の宮だって、非常に理想的なお方に見えるのだろう」
とお思いになります。それにつけてもいつも二人離れずお暮しになってきたこれまでの長い歳月にも増して、紫の上が世にもたぐい なく完璧なお人柄だと思われて、我ながら、よくもこうまで理想r的な女に育てあげたものよと、お考えになります。
わずか一夜別れていても、よそで明かした朝の間さえ、紫の上が気づかわしく恋しくて、愛憐の情がますますはげしくつのるのを、どうしてこんなに恋しいのだろうかと、不吉な予感さえするほどなのでした。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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