〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/09/05 (月) 

若 菜 ・上 (十七)
それをお見送りになるにつけても、紫の上の心中は、とても平静ではいられないことでしょう。
長い年月には、こんなことになるのではないかと思ったことも色々あったけれど、今更とばかり、この頃では全く浮気沙汰から遠のいてこられたので、もう大丈夫と、すっかり安心し切っていたあげくの果てに、こんな世間の噂にも恥ずかしいようなみっともないことが起こってきたとは、安心していいような夫婦仲でもなかったのだから、これから先もどんな不安なことが起こるかわからないと思うようになられました。表面は一向にさり気なく紛らわしていらっしゃるのですが、女房たちも、
「思いがけないことになりましたわね。女君がほかにたくさんおいでになってもどなたも皆、紫の上の御威勢には一目置かれて遠慮なさっていらっしゃればこそ、これまで面倒なことは何も起こらず平穏だったのです。あちらさまのこちらを無視しきったこんな厚かましいなさり方に、負けてなんかいられるものですか。でもそうかといって、ちょっとしたことがきっかけで姫宮方との間でいざこざでも起こったら、その都度面倒なことになるでしょうね」
などと、仲間どうしで話し合って心配しているようです。紫の上は一向に気づかないふりをなさって夜が更けるまで、たいそう御機嫌よく女房たちと話しこまれて起きていらっしゃいます。
こんなふうにまわりでみんながあれこれ取り沙汰しますのを、紫の上は聞き苦しいとお思いになって、
「女君がこんなにたくさん揃っていらっしゃるようなものの、お気に召すような理想的なお方で、華やかな貴い御身分の方もなく、いつも御覧になっていて、物足りなく思っていらっしゃったところへ、御理想にかな った女三の宮が、こうしてお越し下さったのは、ほんとうに結構なことです。わたしはまだ子供心がぬけないからかしら、御一緒に仲良くしていただきたいのだけれど、困ったことに、妙にこだわってでもいるように、まわりの人々が取り沙汰sるのでしょうか。こちらと同じ身分とか、あちらが低い身分のような人に対してなら、黙って聞き流すわけにはゆかないkとも、つい自然に起こってくるものだけれど、女三の宮の場合は、おそ れ多くもおいたわしい御事情もおありのことなので、何とか親しくしていただきたいとわたしは思っています」
などとおっしゃいます。中務なかつかさ や中将の君などといった女房たちは、互いに目くばせしながら、
「あまりにも思いやりがありすぎますわね」
などと言っているようです。この人たちは昔、源氏の君が情をおかけになって使い馴らされた女房たちだけれど、源氏の君が須磨へおいでになった時からずっと、紫の上にお仕えして、誰も心からお慕いしているのでしょう。
ほかの女君たちも、
「まあ、只今はどんなお気持でいらっしゃることでしょう。もともと御寵愛を諦めているわたしたちは、こんな時、かえって気が楽ですけれど」
などと、水を向けながらお見舞いを言って寄こされます。
「こんな推量をする人たちの方こそかえってうとましい。どうせ男女の仲なんて無常なもの、それなのになぜ、そうくよくよ思い悩むことがあるだろう」
などとお考えになります。
あまり遅くまで起きているのも、いつにないことと、女房たちが不審がるだろうと、気が咎められて、御帳台にお入りになりました。女房が夜具をおかけしましたが、紫の上は、こもところほんとうに独り寝で、横に源氏の院がいらっしゃたない淋しい夜な夜ながつづいていることに、やはり平静ではいられない切ないお気持になります。
「あの須磨へ源氏の君がいらっしゃってお別れしていた頃を思い出すと、どんなに遠く離れていられても、ただ同じこの世に生きていらっしゃることさえお聞きすれば、自分のことなどはさておいて、ただ君のお身の上ばかりを、惜しくも悲しくも思ったではなかったか。もしあの時、あの騒ぎに紛れて、君も自分も命を落としてしまっていたなら、どんなにあっけない二人の仲だっただろう」
と、また思い直されもするのでした。外には風の吹いている夜の気配が、冷え冷えとして、なかなか寝つかれないでいらっしゃるのを、お側の女房たちが気づいて怪しみはしないかと、身動きもなさらないのも、やはり何としてもお苦しそうです。そんな時、夜のまだ暗い中に一番鶏いちばんどり の声が聞こえるのが、身にも心にも沁みとおるようでした。
ことさら恨んでばかりいらっしゃるわけではないのですが、こんなのも紫の上が思い悩んでいられたからでしょうか、源氏の院のお夢に紫の上がお見えになりましたので、はっとお目覚めになり、紫の上がどうかなさったのではないかと、胸騒ぎがなさるうちに、鶏の声が聞こえて来たので、待ちかねるようにすぐ起き出されました。まだ夜も暗いのも知らず顔に、急いでお出になります。
女三の宮はまだほんとうに子供っぽくていらっしゃいますので、乳母たちがすぐお側に控えています。妻戸を押し開けて源氏の院がお出になられるのを、乳母たちが見つけてお見送りします。
夜明け前のほの暗い空は、庭の雪あかりが映り、あたりはまだぼうっとかす んでいます。立ち去られた後まで漂っている残り に、乳母は、<春の夜の闇はあやなし梅の花> と、源氏の院の夜深いお帰りを古歌に託して、つい、独り言にもらします。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next