〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/08/27 (土) 

若 菜 ・上 (十二)
朱雀院も何かと心細いお気持ちの時でしたから、もうこらえきれず、しおしおと涙ぐまれながら、昔や今のお話しをいかにも弱々しそうなお声でなさいます。
「わたしの命も今日か明日かと思いながら、何とか月日がたちましたが、それに気を許して、深い出家の念願の片端も果たさずに終るのではないかと、気持をふるい立たせて決行したのです。それでもこれから先¥、余命がそうなければ、仏道修行の志もたいして果たせないでしょうが、まあ一時にせよ、出家の功徳でゆとりをつくっておいて、せめて念仏だけでもと思っています。頼りない病弱なわたしが、これまで何とか生き長らえているのは、ただこの接眼だけに引き止められてきたのだということも、わかっているつもりですが、これまでお勤めを怠ってきただけでも、気がかりでならないのです」
と仰せになって、かねてお考えになっておかれた後々のことなどを、詳しくお話しなさるついでに、
「姫宮たちを幾人もあとに残して捨てて行くのが可哀そうで辛いのです。その中でも、ほかに世話を頼む人のない姫宮のことが、とりわけ気がかりで苦に病んでいます」
と、はっきりとは女三の宮との御縁談を切り出せない御様子を、源氏の君はお気の毒にお思いになります。内心お気持の惹かれている姫宮のことなので、お聞き過ごしにはなれなくて、
「ごもっともです、並々の身分の場合と違い内親王ともなれば、親身にお世話申し上げる御後見役のないのは、いかにも不都合なことでございます。幸い御立派な東宮がいらっしゃって、こんな末世には過ぎた、実に素晴らしい将来の帝だと、世間でもこぞって頼みにして崇拝しております。まして、こxひらの院から、これだけは是非にとお話しなさいましたことなら、一事としておろそかにお扱いなさるはず もございません。将来のことなど、一向に御心配も及びませんが、いかにも物事には限りがありますから、東宮が御即位になり、天下の政治はすべてお心のままという状態になりましても、姫宮お一人のために、特別に際立った御世話をなさるということは、おできにならないでしょう。大体、女の人のためにはいろいろこまやかな御世話をするならば、やはり、御結婚なさって、逃れられないやくめとして、お世話してあげるようなお り役の者がいるのが安心でございましょう。なお、やはり、将来のことで御心配が残るようでしたら、今のうちに適当な人物をお選びになられて、こっそりとしかるべき婿君を、お決めになっておかれるのがよろしゅうございましょう」
と申し上げます。朱雀院は、
「わたしもそう考えているのですが、それもなかなか難しいことなのです。昔の例を聞いても、在位中の全盛の帝の内親王さえ、苦労して相手を選んで、結婚させた例が多いのです。ましてわたしのように帝位を降り、今を限りと出離する時になって、大仰に考えるべきことでもないのですが、しかしまた一方、こうして世を捨てたなかにも、なお捨て難いこともあって、あれこれ考え悩んでいるうちに、病気はいよいよ重くなっていくし、再び取り返せぬ月日も、次第に過ぎ去って行くので気ばかり焦ります。御迷惑なお願いですが、この幼く頼りない内親王一人、特別に引き取ってお育て下さり、あなたのお考えでしかるべき縁を結んで結婚させてやっていただけないでしょうか。そういうことをお話ししたかったのです。夕霧の権中納言の独身時代に、こちらから申し込めばよかったと残念です。太政大臣に先を越されたのが悔やまれます」
と仰せられます。
「夕霧の中納言は、実務の方面では、たしかによくお仕え申し上げるでしょうが、何分にもまだ万事未熟で、分別も足りません。恐縮ながらわたしが、真心込めてお世話申し上げましたら、院のお側にいらっしゃった時と変わらないようにお思いなさるかと存じます。ただわたしの命も先が短く、最後まで御面倒が見られないのではないかという懸念だけが残り、心苦しく存じまして」
と、ついにお引き受けになったのでした。
やがて夜になりましたので、主人の朱雀院側も、客側の上達部たちも皆、朱雀院の御前で御饗応にあずかりました。御馳走は精進料理で格式張らず、風流に作らせてあります。
朱雀院の御前には、塗り物ではなく、浅香せんこう という香木作りの足つきの膳の上に、仏式の食器が載っています。今までとは違った器でさし上げるのを拝して、人々は涙を拭くのでした。しみじみ心を打つことも数々ありましたが、くだくだしいので省きます。
夜が更けてから源氏の君はお帰りになりました。ろく の品々をそれぞれ応分に下さいました。別当べっとうとう 大納言もお供してお送りしました。
朱雀院は、今日の雪にいっそうお風邪がひどくなられて、御気分もすぐれず、悩ましくお感じでしたが、女三の宮の件を源氏の君に御依頼してお決めになりましたので、すっかり御安心なさいました。

源氏の君は、女三の宮のことをお引き受けしたものの、何となく心苦しくて、あれこれと思い悩んでいらっしゃいます。
紫の上も、こうしたお話しのあることを、かねがね、噂にはちらりとお聞きになっていらっしゃいましたけれど、
「まさかそんなことはないだろう、朝顔も前斎院の時だって、ずいぶん熱心に御執心の御様子だったけれど、 いて結婚はなさらなかったのだから」
などとお考えになって、そんなお話しがあるのですか、ともお問いにならず、全く疑わず何の不安も抱かないふうなのがお可哀そうで、
「このことを知ったら何と思われるだろう。自分の愛情は露ほど変わらないばかりか、そんなことになればかえって紫の上への愛情が一層増すばかりだろう。それでもわたしのそうした本心が見究められないうちは、どんなに疑ったり、悩んだりなさることだろうか」
など、不安にお思いになります。ましてこの頃では、お互い心の隔てもすっかりなくなって、しっくりと睦まじい御仲になっていますので、しばらくの間でも心に隠し事があるのは気が重くて、その夜はそのままおやす みになって朝をお迎えになりました。
源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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