〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/08/26 (金) 

若 菜 ・上 (十一)

朱雀院は、御気分がたいそうお苦しいのを御辛抱なさりながら、御無理をなさってこの裳着の儀式を無事におすませになりました。
その三日後に御決心なさって、ついに御落飾なさいました。普通の身分の者でさえ、いよいよ出家して剃髪ていはつ するとなればまわりは悲しいものですが、まして朱雀院の場合は、ひとしおおいたわしく、おきさき の御方々もどうしようもなく悲しみにくれていらっしゃいます。
中でも朧月夜の尚侍は、お側にぴったりとお付き添いにjなって離れず、ひたすら悲しみに沈んでいらっしゃるのを、朱雀院は慰めかねていらっしゃいます。
「子を思う親心には、まだ限度があったのですね。あなたが今こんなに深く悲しんでいるのを見ると、あなたへの愛着が断ち難くて、別れるのが限りなく辛くてならない」
とおっしゃって、出離のお心も乱れそうになりますのを、無理に耐えて御脇息きょうそく に寄りかかっていらっしゃいます。
延暦寺えんりゃくじ座主ざす を始めとして、御受戒の役を務める三人の僧が伺候して、院に僧衣や袈裟けさ をおつけします。そうして、いよいよこの俗世にお別れになる得度とくど 式の作法は、何もかも悲しくてたまりません。今日だけは、悟りすました僧たちでさえ、涙を抑えかねています。まして朱雀院の姫宮たちや、女御、更衣、その他院内の大勢の廷臣や、女房たちが、上から下まで、いっせいに声をあげて泣きどよめきますので、院はお心もひどくゆらいで、こんな仰々ぎょうぎょう しくせずに、閑静な浄処に、すぐさま引き籠るおつもりだったのに、その予定がすっかり違ってしまったと後悔なさいます。それもひとえに、この幼い女三の宮が気がかりなゆえにとお思いになり、それをお口にもなさるのでした。
帝を始めとして、お見舞いのお使いが沢山参られたことは今更申すまでもありません。
六条の院の源氏の君も、朱雀院が少し御気分がおよろしいらいいとお聞きになられて、参上なさいます。
源氏の君は准太上じゅんだいじょう 天皇ですが、朝廷からいただく御封みふ などは、太上天皇と全く同じ待遇と定められています。ところが御本人は、万事に本当の太上天皇のように格式ばったことはなさいません。世間の人々の敬いあが めていることは並々ではないのですが、何事もことさらに簡略になさって、今度も例のように、大袈裟ではないお車をお使いになり、お供の上達部かんだちめ なども、ごく少ないしかるべき方々だけが馬ではなく、車でお供なさいます。
朱雀院はこの御訪問をたいそうお待ちかねでお喜びになり、御病気の苦しさに いて気を張られ、お元気を出されて、お会いになりました。
格式ばったことはなさらず、ただいつもの院のお尾間に、お席をもう一つ加えて、お迎えになります。
御落飾遊ばされ、あまりにも変わり果てた朱雀院のお姿を、目の当たりになさいました時に、源氏の君は、過去も未来も真っ暗でわからなくなり、悲しさに涙がとめどなくあふれそうにおなりで、とっさにそれをとめることもお出来になりません。
「故桐壺院がおかくれになった十数年前から、この世の無常をしみじみ思い知りましたので、出家の念願がますます深くなっておりましたのに、根が優柔不断で、ぎずぐず迷いためらっているばかりのうちに、とうとこうした院の御出家のお姿を拝するまで遅れてしまいました。
取り残された自分の心のなまぬるさがゆくづく恥ずかしくてなりません。わたしのような者にとりましては、出家も大したことではないと、度々思い立つのでしたが、いといと出家という時になると、あれこれと、どうも思い切れないことが次々起こってくるようでして」
と、いかにも無念さをなだめられそうもない御表情でいらっしゃいます。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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