〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-\』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻六) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/08/22 (月) 

若 菜 ・上 (三)

御退位は遊ばしましたけれど、やはり御在位中からその御恩顧をこうむ った人々は、今でも前と変わらずお慕わしくありがたい院の御有り様を、心の慰め所として、いつも参上してお仕えしておりましたので、人はどなたも皆、心の底から残念に思っていらっしゃいます。
六条の院からもお見舞いがしきりに寄せられます。源氏の君御自身もお伺いなさるとおっしゃるのをお聞きになって、朱雀院はたいそうお喜びになります。
まず夕霧ゆうぎり中納言ちゅうなごん が参上なさいましたのを、御簾の内にお召し入れになって、細やかに御物語をなさいます。
「亡き父院が、御臨終の時に、多くの御遺言ゆいごん をなさいましたが、その中にあなたの父君の御事と、今の帝の御事を、とりわけわたしに御遺言されました。いざ帝の位につくと、帝の自由に出来ることには限度があるのです。そのため、わたし個人の内心の好意は一向に変っていないのに、ちょっとした過失から、源氏の君からお恨みを受けるようなこともあったと思われます。ところがあの方は、この長い年月、何かにつけてその頃のことを恨んでいらっしゃるような御様子は、まったくお見せになりません。賢人といわれる人でも、自分の身の上のこととなれば、いつもとは違って、感情に流され平静を欠き、必ずその復讐ふくしゅう をしたり、曲がったことをしでかす例が、聖代の昔でさえも多かったのです。ですからいつかは、しんなお心が源氏の君にもちらりと洩れるのではないかと、世間の人もそういう目で疑って見ていたようですが、とうとう最後まで耐え忍び通されて、東宮などにも好意をお寄せ下さっています。今ではまた、明石あかし の姫君を東宮妃として入内させて、わたしとこれ以上ない親密な仲になって、睦まじくして下さるのを、心の中では無上に嬉しく思っています。
生来わたしは愚直な人間の上に、子つえの闇に迷い、頑固な見苦しいことをしてはならないと思い、東宮のことはかえって他人ひと 事のように、源氏の君にお任せしきって無関心にしています。もっとも今の帝の御事は、故院の御遺言に違わず、譲位来ましたから、御覧のように、末世の名君として、これまでのわたしの治世の不面目を、挽回して下さっています。わたしの望み通りで、まことに嬉しく思っています。この秋の行幸から、昔のことが色々いっしょに思い出されて、源氏の君のことがしきりになつかしくお会いしたく気がかりでなりません。お目にかかって直々申し上げたいこともさまざまございます。かならず御自身でお越し下さるようにと、あなたからおすすめして下さい」
など、涙ながらにおっしゃいます。
夕霧の中納言は、
「過ぎ去った昔のことは、わたしなどにはなんともわかりかねます。成人して朝廷にもお仕えしているかたわら、世間のこともいろいろ見聞きしてまいりました間に、大小の事柄についても、親子どうしの内々の打ち明け話の折にも、昔辛いことがあったなど、父はついぞ一言もほの めかしたことはありません。
『こうして政治の御後見を中途で御辞退して、静かな出家の願いをかな えるために、すっかり隠棲して後は、世間のことは何事も一切あずかり知らないようにしているので、故桐壺院の御遺言通りにもお仕え申し上げていない。朱雀院が御在位の時には、わたしの年も若く、器量も不足だったし、偉い目上の方々が大勢いられたので、朱雀帝にお仕えしたいという真心を充分に尽くして御覧いただくこともなかった。朱雀院が、今のように御譲位遊ばして政治から離れ、のどやかにお過ごしになっていらっしゃる折だから、時々参上して、心の内を隔てなくお話しもし、お伺いもしたいのだけれど、やはり何となく、准太上天皇じゅんだいじょうてんのう などという大層な位をいただいて、窮屈な身分になってしまっては、軽々しく動けず、つい自然に月日を過ごしてしまった』 と、時折嘆息して話しております」
などと、申し上げます。

源氏物語 (巻六) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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