〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/25 (日) みやこ うつ し (三)

清盛は、中門廊の の内にいて、庭上の声を、遠耳に聞いていた。
しかし、頼政の首も見なかったし、宮のお首もあらた めようとはしなかった。
左右の者が、
「御検分を」
と、うながすと、
「おれには分からぬ」
と、いやな顔を示し、さらに不機嫌になって、こうも言った。
「以仁王には、お会い申したこともない。生前、会い参らせたこともない清盛が、死に首へ拝顔したとて、なんの検分になろう。たれか、王をよく存じ上げていた者を呼んでとく と見せい」
そう言われて、人びとは、はたと困った。
清盛すら生前見たこともない貴人という。西八条にも、六波羅中にも、宮のお顔を見知った者はおそらくいまい。討手の将士に分からなかったのは当然である。
さしずめ、その識別は、殿上人に求めるしかない。 「たれがよいか」 「たれならば・・・・」 などと評議の末、宮に有縁の公卿に向かって、八方、使いをやってみた。
けれど、たれもかも、
「いっこうに存ぜぬ」
とか、また、
所労しょろう (病) にて、引き籠り中なれば」
とか逃げを張って、そんな鑑定人を、われから買って出て来る者もない。
そのうちに、どこから聞き及んだか、六波羅のなにがしが、一人の女房を連れて来た。この女性は、ひそかに、宮に愛されて、宮のお子まで生んだ者とのことに、さっそく、御首級みしるし を見せると、女はお首の上に胸を押し当てて泣きむせ び、いつまでも、離そうとしなかった。
「さてこそ、疑いもなき院首級よ」
と、ようやく、このことは決着した。
しかし、これを見ても分かることは、皇族であっても、権勢の外なる “忘られ人” の境遇におかれると、殿上の交わりはおろか、お顔を知る者すらまれであったらしい。皇族も人の子でおわす以上、その若い血も燃ゆるからには、いかに、そういう不合理な宿命に対し、おりには忿怒ふんぬ をおぼえ、反逆の血も沸かされたことか、察するに難くない。
ために、宮の行動は、軽率すぎるとも見えるほど、かんたんに他のそそのか しにも、乗られたのである。
ただ以仁王の場合は、唆した者が、源三位頼政であったということだけが、せめてものことであったといえよう。
頼政が、御自害をお勧めしたさい、
(光明山のふもと、おんうつ は終わっても、令旨は、諸国の源氏に、新しい望みを与え、生きて、地を けておりましょう)
と、言ったが、この一語こそ、宮のお胸に、唯一のおなぐさめであったに違いない。この世に生を得て初めての、かなしい生きがいをお思いになったことかも知れない。
宮には、生前、幾人ものお子があった。八条女院の許で養育されたお二人のうち、姫宮は、幼いうちに亡くなられた。── そして、もっと後日、寿永元年の秋のころ、讃岐前司重李は、また以仁王の若宮というのを連れて、信濃の木曾義仲を尋ねてもいる。世に “北陸ノ宮” といわれたのは、そのお子のことである。
ともあれ、以仁王と頼政の謀叛は、これで終熄しゅうそく した。一応、表面は片付いたというしかない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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