清盛は、中門廊の簾
の内にいて、庭上の声を、遠耳に聞いていた。 しかし、頼政の首も見なかったし、宮のお首も検あらた
めようとはしなかった。 左右の者が、 「御検分を」 と、うながすと、 「おれには分からぬ」 と、いやな顔を示し、さらに不機嫌になって、こうも言った。 「以仁王には、お会い申したこともない。生前、会い参らせたこともない清盛が、死に首へ拝顔したとて、なんの検分になろう。たれか、王をよく存じ上げていた者を呼んで篤とく
と見せい」 そう言われて、人びとは、はたと困った。 清盛すら生前見たこともない貴人という。西八条にも、六波羅中にも、宮のお顔を見知った者はおそらくいまい。討手の将士に分からなかったのは当然である。 さしずめ、その識別は、殿上人に求めるしかない。
「たれがよいか」 「たれならば・・・・」 などと評議の末、宮に有縁の公卿に向かって、八方、使いをやってみた。 けれど、たれもかも、 「いっこうに存ぜぬ」 とか、また、 「所労しょろう
(病) にて、引き籠り中なれば」 とか逃げを張って、そんな鑑定人を、われから買って出て来る者もない。 そのうちに、どこから聞き及んだか、六波羅のなにがしが、一人の女房を連れて来た。この女性は、ひそかに、宮に愛されて、宮のお子まで生んだ者とのことに、さっそく、御首級みしるし
を見せると、女はお首の上に胸を押し当てて泣き咽むせ
び、いつまでも、離そうとしなかった。 「さてこそ、疑いもなき院首級よ」 と、ようやく、このことは決着した。 しかし、これを見ても分かることは、皇族であっても、権勢の外なる
“忘られ人” の境遇におかれると、殿上の交わりはおろか、お顔を知る者すらまれであったらしい。皇族も人の子でおわす以上、その若い血も燃ゆるからには、いかに、そういう不合理な宿命に対し、おりには忿怒ふんぬ
をおぼえ、反逆の血も沸かされたことか、察するに難くない。 ために、宮の行動は、軽率すぎるとも見えるほど、かんたんに他の唆そそのか
しにも、乗られたのである。 ただ以仁王の場合は、唆した者が、源三位頼政であったということだけが、せめてものことであったといえよう。 頼政が、御自害をお勧めしたさい、 (光明山のふもと、おん現うつ
し身み は終わっても、令旨は、諸国の源氏に、新しい望みを与え、生きて、地を翔か
けておりましょう) と、言ったが、この一語こそ、宮のお胸に、唯一のおなぐさめであったに違いない。この世に生を得て初めての、かなしい生きがいをお思いになったことかも知れない。 宮には、生前、幾人ものお子があった。八条女院の許で養育されたお二人のうち、姫宮は、幼いうちに亡くなられた。──
そして、もっと後日、寿永元年の秋のころ、讃岐前司重李は、また以仁王の若宮というのを連れて、信濃の木曾義仲を尋ねてもいる。世に “北陸ノ宮” といわれたのは、そのお子のことである。 ともあれ、以仁王と頼政の謀叛は、これで終熄しゅうそく
した。一応、表面は片付いたというしかない。 |