〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/25 (日) みやこ うつ し (四)

すぐ、五月は過ぎ、六月に入った。
すると ── である。
突如として、西八条から、
「都を、福原にうつ す」
という沙汰が出た。
万家の公卿、京中の諸職、上下の騒ぎはひと通りではない。
つい七日前には、合戦やら三井寺の炎上におののき、それが んだと思うと、足もとから鳥の立つような、遷都せんと の令である。── しかも、初めは、六月三日と触れ出されていたのが、急に一日繰り上げられて、六月二日卯ノ刻 (午前六時) には、はや、主上 (安徳天皇) の行幸が、果てもない列をなして、京をあとに、西へさしてゆくのが見られた。
つづいて、中宮 (建礼門院) も、
また、摂政基通の牛車も。
わけて人目をいた ましめたのは、後白河法皇の御車であった。
これには、鎧武者ばかりが、前後に添い、さながら囚人めしうど の護送である。福原に着いても、三間板屋さんげんいたや と呼ぶ粗末な建物の内に押し込め参らせ、一切の出入りを って、原田はらだの 大夫種直が守護についた。
きょうの都も、一夜に変わり果てた。桓武天皇このかた、四百余年の平安の都であった。埴生はにゅう の小屋や板小屋に、食うや食わずの庶民でさえも、すでに、この土地と自分の生活細胞とは、木の根と土との関係みたいに結びついているのを、公卿や武門が去るとなれば、自分らも、それを慕って行くしかない。自然、都には職もなくなるし、職も得られないし、食うにも道はないのだった。
摂津の野には、毎日、そうした流民のみじめな列も、えんえんと、続いていた。
「気でも狂われたやら、相国さまは」
「三井寺は焼く、法皇様は押し籠める、あげくに、都うつ しとは」
怨嗟えんさ の声は、地をあえ ぎ喘ぎ歩いて行く。
この声が、清盛の夜の枕に、通わないはずはない。
しかも彼はあえて、この重大な問題を、決行した。もとより、考えぬいた帰結である。これ以外に、現状の危機を切り抜け、平家を安きにおく道はないと、信じたからだった。
以仁王のほかにも、あなお、後白河の皇族はある。ふたたび、二の舞を見ないとは言いきれない。
また、依然として、法皇奪取の計画があるとは、時忠も彼に注意していることだった。おそらく、それはあるであろう。法皇御自身のお心としても、そうであるはずだ。
清盛は、それをも、大いに警戒している。
けれど、彼が遷都を決意した第一の理由は、西八条や六波羅の地勢のまずさである。── 京を囲?いにょう している諸山の僧兵組織に対し、到底、勝目のない盆地の狭隘きょうあい に、一門いらか をならべている状態は、つねに累卵るいらん の危うさにあるものというほかはない。
従って、政治の複雑さ、むずかしさ。それは、それらの諸山の法師と、公卿とが、余りに接近しすぎているところからも来ているのだ。
もう、安んじていられる日ではない。一門の軒に、火はついている。── 今にして、都を遷さねばと、彼は思い決めたものだった。
還す所の福原は、西国西海へ広々とつづく新天地だ。四国、九州は、代々、平家恩顧の武族ばかりが相 っている。── 四百年の古池、せせこましい京の小盆地、捨てるに、なんの惜しみがあろう。清盛は、なお生々たる夢を持ち、長寿するつもりであったらしい。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ