内外の情勢が、今ほどはげしい様相をもって、平家へ迫ったことはない。 いいかえれば、それは清盛への四面
楚歌そか の声であり、時局の処理、進退、すべて彼一個のうえにのしかかって来たものといってよい。 わけて、この数日の多事と精神的な衝撃とは、彼の健康にも耐え得ないほどなものだった。 頼政が、宮を奉じて、三井寺にたてこもったと聞いたときなど、彼は、 「・・・・ふううむ。あの頼政がか」 と、鼻腔びこう
を大息で鳴らしたきりであった。けれど、眼の中のものや、顔じゅうに滲にじ
み出た深刻な色には、かたわらの人びとすら、眼を反そ
らさずにはいられなかった。 「腹立ちは体に毒だ。何よりは、体に障さわ
る。あとの疲れもかなわん」 彼は、彼自身をなだめるために、努力と、時間を要した。かなり時たってから、ようやく、自嘲的じちょうてき
につぶやいたことだった。 「えらい。思えば、えらいやつだ、頼政という男も。── およそ清華せいが
の公卿といえど、この清盛に眼をかけられて、媚こ
びぬはなく、靡なび かぬ輩やから
もなかったのに」 おそらく、それは彼の負け惜しみだけではなかったろう。騙だま
され、裏切られても、事と手際によっては、憎むべき相手に、感嘆を送ってしまうような例もないではない。 頼政の辛抱づよさと、晩年の志操を思うとき、歯咬はが
みをして忿怒ふんぬ にふるえたのは、もちろんだが、一面、鵺ぬえ
の正体に、驚嘆したことも事実である。 とにかく、彼の立場は、受け身にあった。四面の楚歌を感じながら、極力、自己の感情をなだめ、陣頭の指図や内外の折衝は、すべてこれを、義弟の平大納言時忠に任せていた。 時忠は、由来、泰平な日の有能ではない。逆境につよい英俊である。 西八条でも六波羅でも、また検非違使ノ庁へ出ても、彼の姿は、席あたたまるひまもなかった。 こよいも、忙しげに、西八条の奥へ通り、清盛と対談数刻の後、また、馬をとばして、六波羅へ急いで行った。 「左衛門督さえもんのかみ
、左衛門督」 六波羅広場は、かがり火の海だった。 たそがれごろ、宇治川から凱旋がいせん
したばかりの兵馬が、そこの広場いっぱいに休息していた。 「おう、知盛とももり
はこれにおるが」 楯たて
を敷き並べた上で、知盛や重衡、そのほか侍大将数名が、小酒こざか
もりを酌く んでいた。 将ばかりでなく、士卒すべてにも、勝ち祝いの酒が配られていたのである。 「はや、祝ほ
ぎ酒か」 時忠は、すすめられた敷皮に座をとって、左右をながめた。 今日の橋合戦の凄すさ
まじさやら、馬筏うまいかだ の手柄話などに、沸き返っていたところらしく、 「いかがです、叔父君にも」 と、知盛はさっそく土杯さかずき
を取って、時忠へ注ごうとした。 「いや、まだ早い」 時忠は、杯を下に置き、すこし威儀をあらためた。 「まず、禅門相国 (清盛)
のおことばから先に、お伝えしよう」 そう聞くと、知盛、重衡を初め、部将たちはみな、行儀を直した。そして、知盛は、叔父の口も待たずに訊たず
ねた。 「宇治、平等院などの、戦の模様。父禅門へ、くわしくお聞こえ上げてくだされたか」 「残りなく、申し上げて参った」 「そして、お褒めのことばは?」 「べつに」 「では、およろこびもなかったのか」 「いや、もとより御満足のていではあった。けれど、宇治の一戦は、ただ一角の火を防ぎ止めたというだけに過ぎぬ。物騒な火の手はまだまだ八面に風を待っておる」 これは、清盛の名をかりて、時忠が、公達輩きんだちばら
の未熟をたしなめるため、言ったらしい。 宮方の五、六十騎にたいし、こちらは、精鋭五百余騎で迫ったのだ。勝って当たり前である。まだ、馬の鞍くら
も下ろさぬうちに、酒振舞いなどは、余りに乳くさい。── 平家の足もとへ迫って来た時潮の波がしらは、そんな生なま
ぬるいものではなく、もっと厳しくて冷酷なものだ、ということを、若い知盛や重衡の胸に、しかと、知らしめておこうとする叔父心でもあったのである。 「昼の合戦に引き続いて、人馬の疲れもはなはだしかろうが、兵糧などすましたうえは、即刻、三井寺へ駆け向かい、宮方に加担なしたる寺中の輩やから
を、ことごとく縛くく り上げよとの御命でおざる。──
時を外はず さば、みな逃げ退の
こうぞ、こよいをおくな、とも仰っしゃった」 「では、三井寺を攻めよとの、お達しか」 知盛は、言葉のはずみで、つい杯へ手をのばし、一と息にそれを飲み干した。飲んでから、かれは、公式に少し頭ず
を下げて、 「仰せ付け、かしこまって候う。明日のうちにも、平家に悪意をふくむ法師どもは一人も余さず数珠つなぎとして、西八条のお坪先まで引き連れましょうず」 と言った。
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