合戦は、わずか半日の間に、終わっていた。 宇治川の橋上橋下、平等院附近、そして綺田
あたりまでも、午ひる 過ぎにはもう嘘うそ
みたいな平穏さであった。炎天の下に、単調な田舎道や青田が、照り返っているだけでしかない。 おりおり、黄塵こうじん
をあげて、大和街道を駆け交わして行く武者は、都への早馬か、六波羅からの使いとみえる。そして一時は、南都の大衆が、奈良坂辺りまで陣を進めたとの風評もあったが、 「頼政は、討死をとげ、以仁王にも、同じ場所で、御最期をとげられたそうな」 と知れ渡ったため、宮のお迎えに出た僧兵軍も、やがて、陣を払って引き揚げてしまったらしい。 物見の知らせにも、 「狛こま
、奈良坂辺には、はや、法師武者の影も見えませぬ」 とあったので、六波羅勢も徐々に兵馬を洛内へ返し始めた。平知盛と重衡の二将は、先に帰洛し、薩摩守さつまのかみ
忠度ただのり は、あとに残って、なお、戦の始末と、殿軍しんがり
の任に当たった。 忠度は何より先に、宇治橋の修理を急いだ。 それと、敵方の戦死数や、人態の見極めだった。 「たれたれは死し、たれたれは逃亡した」
などという残務もあった。ところが、最もかんじんな、以仁王の御首級みしるし
が分からないし、また、頼政の死骸しがい
も確認できなかった。 その、宮と頼政の一隊を目撃して、綺田かばた
の丘に包囲し、遠矢を集中したあとから殲滅せんめつ
を加えたのは、飛騨守景家の部下であった。そこで景家に案内させ、忠度自身は、綺田まで出向いてみた。藪や水田の死骸を一つ一つ丹念に検み
た。しかしどれも宮らしくない、頼政らしい死骸もない。 そのうちに、日は没して、大和平野は、赤黒く暮れた。 で、ひとまず、明白な敵の死者名だけを書き上げて、夜のうちに六波羅へ早打した。 橋合戦では、三井寺の五智院ノ但馬、一来法師が、奮戦して最期をとげ、小蔵の尊月は、平等院の北大門で斬り死にした。 頼政の嫡男、伊豆守仲綱は、釣殿で自刃しており、弟の兼綱は、五大堂近くで、死骸が見出だされた。 また、渡辺党の競きそう
、続つづく 、加くわう
、省はぶく 、清きよし
などという幾十の源氏武者が討死したのも、その辺から法華堂、鐘楼附近の場所だった。 鳳凰堂の池のほとりに、一人の老武者が死んでいた。初め、忠度の部下は、 「これこそ、三位頼政の屍かばね
」 と騒いだが、あとで別人なることが分かった。薩摩兵衛さつまのひょうえ
渡辺授わたなべさずく であったのだ。 木曾義仲の兄、八条蔵人仲家とその子仲光の最期も分かり、筒井の浄明は、井手の水田のほとりに、たおれていた。──
結局、宮と頼政と、侍臣の唱となう
などが、不明なのである。 ほかにも、宮の乳人子めのとご
の宗信とか、行方の知れない従者もないではないが、平家側にとれば、それらは余り問題ではない。あくまで、問題なのは、宮の御首級みしるし
と、頼政の死を確認することだった。 |