〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/24 (土) 馬 い か だ (三)

ひと支えも、持たなかった。
先を争って、諸門から け入った六波羅の軍馬に喊声かんせい を占められて、平等院は、たちどころに陥ちてしまった。
鳳凰堂ほうおうどう の前や、双桜造そうろうづく りの廊の上下で、宮方とのあいだに、すさまじい死闘は行われたが、到底、数において、また質においても、敵すべきはずはない。
梨ノ木の伊豆守仲綱は、芝地に馬を捨て、弓も捨て、太刀ばかりで戦っていたが、全身の深傷ふかで に、よろめき、よろめき、釣殿まで歩いて行き、そこから広庭へ向かって、
「弟っ、弟っ・・・・。宮の御先途を見届けよ。ここを落ちて、父君のおあとを追え」
と、ふた声ほど叫んでいた。
乱軍の中で、弟の兼綱が、こっちを見た。何か、大声で答えたらしいが、聞こえるはずもない。
かえって、それと知った六波羅方の下河辺しもこうべ 清親きよちか が、
「よい敵」
と見、釣殿へよじ登って 「見参」 とおめいた。
しかし、仲綱は、その前に、自刃していた。
八条蔵人仲家も、その子仲光も、大勢の敵の中で、果てた。渡辺党のはぶくさずくあたうきよし などという一類の猛者もさ ばらも、あけ になって、つぎつぎに最期さいご を遂げ、また三井寺法師の死にもの狂いな死闘には、平家勢も少なからぬ犠牲を出した。
伊豆守仲綱の弟、じょう兼綱かねつな は、釣殿の上に、兄の姿を見たとき、敵の上総介のわらべ 武者次郎丸という者に組みつかれ、振りほどいている間に、矢にあた った。
たおれながら、彼の心は、兄のそばへ行っていたものとみえ、
「兄上っ」
と、大声で叫んだ。
次郎丸は、自分の兄も、この合戦の中にいたので、何か、気おくれがしてしまい、兼綱の首をかきおくれていると、平家の雑武者八、九人が駈け寄って、わらがちに、兼綱の首を取り争い、ひとりが持って逃げると、
「やあ、その首、 やせ。その首、 れだけの手柄ではないぞ」
と、野良犬を追う野良犬みたいに、追いまわして行った。
むかし、左大臣とおる が、宇治の流れを、釣殿の下まで引き、双桜そうろう鳳凰堂ほうおうどう阿弥陀堂あみだどう 、観音堂などを中心に、藤原氏最盛期の工芸の粋を尽くした荘厳も、自然なままの古庭園も、惨として、生々なまなま しい血に染められた。
けれど、幸いに、ここでの合戦は、大きくなかった。そのため、放火もなく、瞬時の激戦を見たあとは、宮のおあとを慕って、逃げ落ちて行く散り散りな武者が見られたのみである。
さて、宮はどうなされたか。
もとより、頼政は、おそばにあった。
頼政の家来、長七となう も、おあとにつき、平等院から南へ ── 奈良への道 ── 一の坂を落ちて行かれた。
宮の乳人子めのとご 、六条宗信、そのほか、あとからお慕いして来た人びとをも加えても、おそらく、二十名を越えた人数ではなかったろう。
木津河堤。
鷺坂さぎざか あたりの細道、藪道やぶみち
ほとんど、無我夢中で、お駈けになったにちがいない。
騎馬は、宮、頼政、宗信だけだった。あとは徒歩。そして、長七唱が、たえず、宮のお馬の口輪をつかんでいた。が、それでもなお、一度や二度は、落馬されたことであろう。
びゅん、びゅん ── と、おりおりに矢が、そこらのあし や木の枝をかすめる。
「・・・・敵か」
宮は、おひとみを、さまよわせる。頼政は、かぶりを振って、
「まだ、敵は、宇治川を越えられますまい。まだしばらくは」
と、静かに言った。
行々子よしきり が、啼きぬいている。木津川の岸は、急に、山すそへ曲がり込んで、道は狭められ、沼、池などの湿地も多い。
「や、宗信が見えぬ。いつのまにやら、宗信の姿が」
宮のお声に、人びとは、前後を見た。
その宗信は、さっき、にえ ノ池で落馬し、水の中から、悲鳴をあげていたが、宮以外の人びとは、すでに六波羅勢が後ろへ迫ったことを知っていた。 「一人のために、ここで敵に追いつかれては」 と、知りつつも、見捨てて来たものである。
「おう、この辺りはもう井手ノ里」
口取のとなう は、わざと駒を早めて、言いまぎ らした。
「── 井手ノ玉川といえば、山吹やまぶき名所などころ です。たしか、その小流れを越えて、光明寺道まで出れば、光明山こうみょうせん右手めて の空に、奈良の春日山が、はや、くっきりとみえましょうぞ」
「なに、春日山が、もう見えてくるか」
「いま、ひと息で」
「ああ、早う見たい、春日山・・・・春日山をば・・・・」
宮は、あえ ぎ喘ぎ、子どものように、仰っしゃりつづけた。
もう、鼻腔びこう と肩で呼吸していらっしゃる御容子だった。頼政は、怖ろしいことに思った。宮のお顔はあきらかに死相を示しておいでになる。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next