とあるが、二万八千余騎は誇張である。じっさいの数ではない。また、宮以下、頼政の方の数も、五百余騎とされているが、それも五、六十騎にすぎなかった。 要するに、一対十、約十倍の敵をむかえ、宇治橋を断
って、宮以下頼政一族は、勝目のない合戦を余儀なくされたものである。 しかし、宇治川合戦の特徴は、兵量ではなくて、その烈しさだった。なぜ十倍もの敵軍に当って、頼政の部下が、あえて死闘を求めたかといえば、その間に、以仁王もちひとおう
を、一歩でも先へ、お落し申そうためであったのは、いうまでもない。 じつに、奈良はもう眼の先だった。あと一歩というところで、追撃軍に食い下がられてしまったのである。宮方の残念さも思いやられるし、また彼らが、目的のため、一死を宇治川に賭か
けて、 「ここを防ぎ戦う間に、宮は奈良へ、急がせ給え」 と、捨て身になったこともわかる。 逸はや
りたつ六波羅勢の先頭では、 「敵は、橋を引いたるぞ、過あやまち
ちすな、川へ落つるな」 と、部将の声が、しきりに聞こえた。 そこの東岸も、西岸の陣も、川をはさんで、おのおの、川べり一ぱいまで、弓を張り並べていた。能うかぎりの、矢ごろ
(距離) を接しあうためである。 多くの場合、序戦はたいがい両軍の矢合わせと、武者声だけがしならくちづく。わけて、宇治橋の対陣は、地形や条件からも、初めは、典型的な矢合わせとなった。 そのうちに、六波羅勢のうちから、矢道をくぐって、橋桁はしげた
の上を七、八人の武者が、はい渡って来るのが見えたので、 「命知らずめ、あれを射よ」 「一人もこなたへ渡さすな」 西軍の矢はその辺へ集まった。 けれど矢は、橋の欄へ立ったり、桁けた
をすべったりして、なかなか人には中あ
たらない。 すると、宮方の中にいた三井寺法師の五智院ノ但馬が、 「やあ、射るを待て。あの木っ葉武者ども、但馬が川へ蹴落けおと
してくりょう」 と、大薙刀をかざし、これも桁の上を渡って行った。 平家方は、それを見て、 「おい、獲物こそ、よい的まと
ぞ」 「あの法師武者を、射て落せ」 と、矢じりを、彼に集中した。 但馬の姿と、その手の薙刀は、矢を交わし、矢を切り払い、六臂ろっぴ
の阿修羅あしゅら みたいに見えた。 彼が、余りに見事に矢を切り払うので、敵味方とも、その技に見ほれ、後の語り草にも
「矢切の但馬」 と称えたという。 また、同じ三井寺法師の二人ほどが、但馬のあとから、橋の中ほどへ来て立ち、 「われと思わん者は、出会い給え。三井寺にかくれもなき筒井の浄明ぞ」 「一来法師とは、われなり、平家にも、人やあらん、見参せん」 と、いずれも白柄の大薙刀を片手に、敵のどよめきを見ながら、さし招いた。 |