〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/21 (水) 馬 い か だ (一)

宇治川の東へ せた六波羅方の将は、左兵衛督さひょうえのかみ 知盛とももり頭中将とうのちゅうじょう 重衡しげひら薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり の三人だった。
侍大将には。
上総介忠清、その子足利又太郎忠綱。
また、飛騨守景家、景高の父子、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光などの大番武者もこま のくつわをならべ、忠光の弟、悪七兵衛景清の姿も見える。
総勢、五百余騎だった。
「古典平家」 には、

“── 都合、そのせい 二万八千余騎、木幡山打越えて、宇治橋のつめ にぞ押しよせたる”

とあるが、二万八千余騎は誇張である。じっさいの数ではない。また、宮以下、頼政の方の数も、五百余騎とされているが、それも五、六十騎にすぎなかった。
要するに、一対十、約十倍の敵をむかえ、宇治橋を って、宮以下頼政一族は、勝目のない合戦を余儀なくされたものである。
しかし、宇治川合戦の特徴は、兵量ではなくて、その烈しさだった。なぜ十倍もの敵軍に当って、頼政の部下が、あえて死闘を求めたかといえば、その間に、以仁王もちひとおう を、一歩でも先へ、お落し申そうためであったのは、いうまでもない。
じつに、奈良はもう眼の先だった。あと一歩というところで、追撃軍に食い下がられてしまったのである。宮方の残念さも思いやられるし、また彼らが、目的のため、一死を宇治川に けて、
「ここを防ぎ戦う間に、宮は奈良へ、急がせ給え」
と、捨て身になったこともわかる。
はや りたつ六波羅勢の先頭では、
「敵は、橋を引いたるぞ、あやまち ちすな、川へ落つるな」
と、部将の声が、しきりに聞こえた。
そこの東岸も、西岸の陣も、川をはさんで、おのおの、川べり一ぱいまで、弓を張り並べていた。能うかぎりの、矢ごろ (距離) を接しあうためである。
多くの場合、序戦はたいがい両軍の矢合わせと、武者声だけがしならくちづく。わけて、宇治橋の対陣は、地形や条件からも、初めは、典型的な矢合わせとなった。
そのうちに、六波羅勢のうちから、矢道をくぐって、橋桁はしげた の上を七、八人の武者が、はい渡って来るのが見えたので、
「命知らずめ、あれを射よ」
「一人もこなたへ渡さすな」
西軍の矢はその辺へ集まった。
けれど矢は、橋の欄へ立ったり、けた をすべったりして、なかなか人には たらない。
すると、宮方の中にいた三井寺法師の五智院ノ但馬が、
「やあ、射るを待て。あの木っ葉武者ども、但馬が川へ蹴落けおと してくりょう」
と、大薙刀をかざし、これも桁の上を渡って行った。
平家方は、それを見て、
「おい、獲物こそ、よいまと ぞ」
「あの法師武者を、射て落せ」
と、矢じりを、彼に集中した。
但馬の姿と、その手の薙刀は、矢を交わし、矢を切り払い、六臂ろっぴ阿修羅あしゅら みたいに見えた。
彼が、余りに見事に矢を切り払うので、敵味方とも、その技に見ほれ、後の語り草にも 「矢切の但馬」 と称えたという。
また、同じ三井寺法師の二人ほどが、但馬のあとから、橋の中ほどへ来て立ち、
「われと思わん者は、出会い給え。三井寺にかくれもなき筒井の浄明ぞ」
「一来法師とは、われなり、平家にも、人やあらん、見参せん」
と、いずれも白柄の大薙刀を片手に、敵のどよめきを見ながら、さし招いた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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