〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
断
(
だん
)
橋
(
きょう
)
の
巻
(
まき
)
2013/08/20 (火)
八
(
や
)
十
(
そ
)
宇
(
う
)
治
(
じ
)
川
(
かわ
)
へ (四)
先頭には
徒歩
(
かち
)
立ちの兵が、途中から
松明
(
たいまつ
)
を打ち振って行った。
山は深まって来たようである。しかしどの顔も、汗を持ち、馬匹にひとしい息を
弾
(
はず
)
ませていた。わけて、宮のお姿は、
嫋々
(
なよなよ
)
と見え、松明の赤さに照らされても、なお横顔は、青白く仰がれた。
部落があった。家ともいえない家ばかりが六、七軒。
道は、下りになり、
炭尾
(
すみのお
)
の谷あいを、二十余町、疲れきった人馬は、黙々と、闇の底を這うように進んで行く。
宮は、またしも、落馬しかけた。
馬の口輪を
把
(
と
)
っていた
渡辺競
(
わたなべきそう
)
が、
「あっ、あぶない」
と、お抱きして、からくも、お体を支え、
「おゆるし給わりませ、駒の驚きは、
口取
(
くちどり
)
めの不覚」
と、自分を叱った。
けれど、宮のお疲れのためとは、たれの眼にも分かっている。頼政の
肚
(
はら
)
では、三井寺を出た時刻と、それが、六波羅勢に知れる時刻との、時間差を計算していた。そして、ぜひにも、明けぬまに、宇治の平等院までたどり着きたいと考えていたのである。── しかし、今はその至難なことが、はっきり分かった。
宮の御疲労もだが、全軍のうちには、宮をお慕いし、頼政に同心して、お供に従って来た三井寺法師もかなりある。それらの法師武者には、
齢
(
よわい
)
六十、七十の老僧も少なくない。彼らは、弟子僧に
扶
(
たす
)
けられ、
薙刀
(
なぎなた
)
を杖とし、
喘
(
あえ
)
ぎ喘ぎ歩いていた。
「ここは、四山の谷あい、火気を用いても、敵に覚えられる
惧
(
おそ
)
れはあるまい。
炊
(
かし
)
ぎして、兵糧をつかおうよ」
頼政は、仲綱、兼綱に言って、兵馬を停めさせた。
「おうい、休め」
「駒をつないで、腰兵糧を解け、火は
焚
(
た
)
くもよいが、大きな火気は揚げるなよ」
兼綱は、口へ両手を囲い、遠い後列と、前列の者へ、大声で伝令した。
頼政は、また命じた。
「
唱
(
となう
)
。── 唱」
「はっ」
「いまの間に、まいちど、総勢を数えてみよ」
唱は、全軍が兵糧をつかっている間に、端から克明に、全員の頭数を調べて来た、
「宮、おん一と方は除き、将士すべてで七十七名にございまする」
「三井寺を出たおりは」
「百十八騎でございました」
「そうか」
頼政は、うなずいただけである。べつに落胆の
容子
(
ようす
)
はない。
途中、脱落者が出るであろうことは、あらかじめ察していた。ものの勢い、あるいは言質、その場の
見栄
(
みえ
)
、虚勢などから、ともに立ち出ではしても、暗夜黙々の行軍には、人間の常に返るのも無理はない。頼政は、郎党が湯を通して来てくれた
水飯
(
すいはん
)
(
干飯
(
ほしい
)
をもどした物)
をぼそぼそ食べながら、
「去りたい者は、去ってくれい。それだけ、わが
罪業
(
ざいごう
)
も軽うなる」
と、つぶやいた。
あいにくと、夏の夜は短い。しょせん、未明に宇治へ行き着くことの不可能を覚ると、頼政の心は、はやくも無意識のうちに、死を思っていた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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