近江三井寺から、宇治を経て、奈良へ入るには三つの道の、どれかを選ぶほかはない。 山科街道を、小野の里へ出て、宇治へ出るか。 遠く、南を大迂回
して、田原越えをとるか。 さもなければ、瀬田川尻を、西の山路へ分け入る笠取越えかである。 頼政は、後者をとった。 「いずこも、火宅かたく
よ」 味方と頼んだ三井寺を立ち退くにさえ、彼は惨たる苦労をなめた。 「寝返りを打って不意討ちの敵やかかるか」 「追い討ちをかけて行く手を阻むや」 と、たえず戦態行軍をとって、宮の一騎を、くろぐろと守護し、先頭には、物見を放ち、隊尾は殿軍しんがり
に見させ、治承四年五月二十五日の深夜、ちりじりに、三井寺を紛まぎ
れ出て、瀬田川ぞいに、 「明けぬまに、せめて笠取の峠路までも」 と、同勢百余騎、急ぎに急いだ。 馬上から頼政は、前後の味方へ、しゃがれ声を張って、二度も同じ言葉を繰り返した。 「宇治までが、やや難路の思いぞ。難路とはいえ、平地一里半、山路およそ三里。夜をこめて越ゆれば、朝まだきには宇治川を見、平等院びょうどういん
も望まれよう。── 宇治まで行けば、大和街道は、奈良まで駒の一と当てぞ」 道はまだ、瀬田川のほとり、石山寺いしやまでら
の下を行く平地なのに、宮は、駒のさばきに、はやくも御難儀な態てい
だった。 騎乗などは、もとより宮のよくする技ではない。 馬列のよどみに、馬が、後肢あとあし
をはね上げたり、勢いよく、たてがみを振りなどすると、宮は、鞍くら
にうつ伏して、しがみつかれた。 「奈良までは、たかだか十里の道よ。── 山路深くに入って、兵糧も炊かし
ぎ、休みもしようぞ」 頼政の心では、たえまなく、宮を励ましているのであった。なまじお宥いたわ
り申しては、と見て見ぬ振りして、駒足を早めつづけた。 石山寺をうしろに半里、川沿い道もようやく絶え、全軍は右へ折れて、山道へかかって行く。 瀬田の水明りと別れてから、眼をふさがれたような暗さである。空には、一点の星もない。 総じて、ここ四、五日というもの、天候は悪かったらしい。 頼政が、わが家を焼き払って、洛中を去った二十一日から、こよい二十五日の夜までの気象は、
「玉葉」 「山槐記」 などの公卿日記にも ── 陰晴インセイ
定マラズ、とか。── 細雨時々下ル ── とかあって、快晴の日はなかったようである。 「古典平家」 に、 |