頼政父子とその一党が、三井寺へ入った直後からの色めきだった。 俄然
、弱音の論議はやみ、妥協説もひっこんでしまった。全山の法師は、一人の例外もなく武装して、 「興福寺へも、はや起た
てと催促せい。延暦寺へも、再度の提携を促してみることだ」 と、ふたたび、三山連合の活動となり、戦備一色の三井寺と化した。 同日。 山科の後白河御所に、平家方の大物見おおものみ
(偵察隊) が入り込んで、そこを三井寺攻めの足掛かりとするらしい準備中と、早耳に知った頼政は、 「兼綱、追い払って来い」 と、兵をさずけて、いいつけた。 午ひる
さがり、その方面に、もうもうたる黒煙くろけむり
が揚がった。兼綱が引き揚げて来ての話によると、すでに山科御所には、馬糧や武器が送り込まれ、平家方の主力が布陣する用意と見えたので、畏おそ
れ多いが、焼き払って参りましたという。 次の日。── 奈良興福寺からは、 (飛牒びちょう
の次第、もとより同心。南都においては、この日を待つこと久し) と、言って来たが、叡山延暦寺からは、なんの返答もない。 それに、南都の大衆にしても、ともに平家を攻めんとは言いながらも、なお、三井寺が積極的に出ない限りはめったに、討って出る気配もなかった。 「西八条へ夜討ちをかけん。──
座して、平軍の来攻を待つようでは、南都も起つまい、叡山も傍観をつづけよう。かつは、地勢も不利」 たれの主唱か、寺中には、そんな声も高かった。 円満院の大夫源覚、法輪院の鬼佐渡、成喜院の荒佐渡などという名うてな荒法師。また律成坊伊賀、郷ノ阿闍梨、悪少納言、大矢坊俊長、証南院の筑後、等々の野心家やら策智の徒も少なくない。 そのはか、大宝院、清滝院しょうりゅういん
、本覚院、花園院、真如院などの同宿は、みな主戦派として、 「夜討ちをかけよ」 に、雷同していた。 だが、頼政は、 「はて、異な取沙汰」 と、眉をひそめた。 夜討ちの敢行などは、秘中の秘計としなければならない。しかも、宮へもたれへも、自分はそんな献策をした覚えもない。それが真まこと
しやかに噪さわ がれている。 「さてこそ敵の反間はんかん
とみゆる。寺中に、平家方の者があって、言いふらすにちがいない」 頼政は、ここにあっても、いささかの安心さえ抱いていない。 生なま
じ学識ずれ・・ がしているので、僧団には、才さい
長けた者が多く、豹変ひょうへん
や妥協は、方便として、なんともしない風がある。── 名を惜しむとか、節義とか、絶対的な公約と気風に生きる武門社会の武人とは、そこにおのずからな違いがある。 が、もとより僧侶そうりょ
のすべてがではない。 筒井浄明、一来法師、五智院ノ但馬、小蔵の尊月などは、 「たのもしき者、義理あきらかな僧」 と、頼政も信じている。 その四人を招いて、頼政は夜討ち説の出所を糺ただ
して見た。すると、一如坊真海とその弟子たちと分かった。 一如坊真海とか、法印禅智、阿闍梨あじゃり
慶秀けいしゅう 、同じく日胤などの一派は、頼政にとって、油断の出来ない人びとだった。頼政は昨日まで、平家に仕えていた身なので、西八条や六波羅の内部事情には精通している。──
真海、禅智、慶秀、日胤などの僧は、みな平家の帰依きえ
を受けている者だった。平家一門こそ、彼らにとっての大檀家だいだんか
である。それが、西八条への夜討ち策を唱える。こんな危険な説はない。 |