〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/18 (日)  かわ へ (一)

頼政父子とその一党が、三井寺へ入った直後からの色めきだった。
俄然がぜん 、弱音の論議はやみ、妥協説もひっこんでしまった。全山の法師は、一人の例外もなく武装して、
「興福寺へも、はや てと催促せい。延暦寺へも、再度の提携を促してみることだ」
と、ふたたび、三山連合の活動となり、戦備一色の三井寺と化した。
同日。
山科の後白河御所に、平家方の大物見おおものみ (偵察隊) が入り込んで、そこを三井寺攻めの足掛かりとするらしい準備中と、早耳に知った頼政は、
「兼綱、追い払って来い」
と、兵をさずけて、いいつけた。
ひる さがり、その方面に、もうもうたる黒煙くろけむり が揚がった。兼綱が引き揚げて来ての話によると、すでに山科御所には、馬糧や武器が送り込まれ、平家方の主力が布陣する用意と見えたので、おそ れ多いが、焼き払って参りましたという。
次の日。── 奈良興福寺からは、
飛牒びちょう の次第、もとより同心。南都においては、この日を待つこと久し)
と、言って来たが、叡山延暦寺からは、なんの返答もない。
それに、南都の大衆にしても、ともに平家を攻めんとは言いながらも、なお、三井寺が積極的に出ない限りはめったに、討って出る気配もなかった。
「西八条へ夜討ちをかけん。── 座して、平軍の来攻を待つようでは、南都も起つまい、叡山も傍観をつづけよう。かつは、地勢も不利」
たれの主唱か、寺中には、そんな声も高かった。
円満院の大夫源覚、法輪院の鬼佐渡、成喜院の荒佐渡などという名うてな荒法師。また律成坊伊賀、郷ノ阿闍梨、悪少納言、大矢坊俊長、証南院の筑後、等々の野心家やら策智の徒も少なくない。
そのはか、大宝院、清滝院しょうりゅういん 、本覚院、花園院、真如院などの同宿は、みな主戦派として、
「夜討ちをかけよ」
に、雷同していた。
だが、頼政は、
「はて、異な取沙汰」
と、眉をひそめた。
夜討ちの敢行などは、秘中の秘計としなければならない。しかも、宮へもたれへも、自分はそんな献策をした覚えもない。それがまこと しやかにさわ がれている。
「さてこそ敵の反間はんかん とみゆる。寺中に、平家方の者があって、言いふらすにちがいない」
頼政は、ここにあっても、いささかの安心さえ抱いていない。
なま じ学識ずれ・・ がしているので、僧団には、さい 長けた者が多く、豹変ひょうへん や妥協は、方便として、なんともしない風がある。── 名を惜しむとか、節義とか、絶対的な公約と気風に生きる武門社会の武人とは、そこにおのずからな違いがある。
が、もとより僧侶そうりょ のすべてがではない。
筒井浄明、一来法師、五智院ノ但馬、小蔵の尊月などは、
「たのもしき者、義理あきらかな僧」
と、頼政も信じている。
その四人を招いて、頼政は夜討ち説の出所をただ して見た。すると、一如坊真海とその弟子たちと分かった。
一如坊真海とか、法印禅智、阿闍梨あじゃり 慶秀けいしゅう 、同じく日胤などの一派は、頼政にとって、油断の出来ない人びとだった。頼政は昨日まで、平家に仕えていた身なので、西八条や六波羅の内部事情には精通している。── 真海、禅智、慶秀、日胤などの僧は、みな平家の帰依きえ を受けている者だった。平家一門こそ、彼らにとっての大檀家だいだんか である。それが、西八条への夜討ち策を唱える。こんな危険な説はない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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