〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/17 (土) 笛 と 蛇 (二)

うしろを振り向いては、宮は、
「鶴丸、供をして来たか」
「はい、どこへいらっしゃいます」
鬱々うつうつ としてならぬゆえ、心を放ちに」
「げにも、高きに登ると、心が晴れまする。なんとよい遠方此方おちこち のながめでしょう」
「・・・・たれだ、まだ後から来る人びとの跫音は」
「四時交代で、君の御身辺を守護している三井寺法師でございます」
いて来るなと申せ。せっかく、山路を歩いて、ひとり心をなだめようと思うて出たのに、僧兵どもの長柄や薙刀なぎなた にぞろぞろつきまとわらてはかなわぬ」
「戻ってもらいましょう、御諚ごじょう なればと、告げて」
鶴丸は、後へ降りて行った。
それきり、なかなか引っ返して来ない。宮は先へ行かれたが、またたたず んで、彼の姿をお待ちになった。
すると下から鶴丸は見えたが、その鶴丸など眼中にもなく、数名の荒法師たちも、彼と一緒に追いついて来た。
宮は、むっとなされたとみえ、
「用はない、法師どもは帰れ」
と、しかった。
けれど、法師たちは、従う色もない。
「御諚には候えど、君に万一のことでもあっては、われらの勤めに欠けまする。上僧の厳命でもおざれば」
「上僧の命は奉じても、まろの意には従えぬと申すか」
宮はついに、おん眉に怒気を発して一喝いっかつ された。押売りの忠義立ても、それには、二の足を踏み、彼らは、口ごたえの代りに、何かぶつぶつ言いながら、基の道へ帰って行った。
僭上せんじょう な・・・・」 と、宮は、余憤のつぶやきを、法師どもの後ろ姿へもらして 「── 付けびと は法親王の方だけかと思えば、まろの身にまで、小うるさい見張りをつけておくとみゆる。眼の前では、君の宮のと、いたずらに、敬礼きょうらい のみはするが、じつは、まろの身を木偶でく案山子かかし のように心得ておるのだ。── どうして、このように、世は虚偽に満ちているのか」
鶴丸の眼は、心配そうに、宮のみけしきを仰いでいた。
夜もおやす みになれないらしい宮のここ幾日かを、この侍童 (小姓) 宿直とのい して知っている。けれどこんな時に言うべき言葉が彼にはつかめなかった。彼は、せいいっぱいな気持で、宮のお心をほかの視界へまぎ らそうと努めた。
「── あれ、御覧ごろう じませ、たくさんな足軽 (平時の雑役夫、戦時の雑兵) どもが、逢坂口おうさかぐち の関や、四の宮の小関のそばに、堀を切ったり、さく を結ったり、あり のように、いくさ支度をしております」
つりこまれて、宮にも、お眸を、はるかになされた。
大関小関の戦備だけではない。湖畔の方にも、土塁や柵を設営している人群れが見える。やぐら が組まれ、たて をならべ、いつでもと、敵を迎え撃つ準備はなっているのだった。
「僧綱らのうち、たれとたれとが、煮えきらぬ態度をとっておるのか。事実は、このように、もう合戦へと、進んでおるのに」
宮は、いささか、み気色を持ち直した。お耳も色が めるのと一緒に、ふたたび、山路の草を踏みしだいて歩み出し、やがて、ころあいな岩へお腰を下ろされた。
比叡つづきの峰々や、長等山ながらやま の冷たい風が、湖を越えて、三上山と伊吹の間を吹きぬけて行く。
琵琶の水は、いちめんに、さざ波立ち、竹生島が、人を恋う孤独の寡婦かふ みたいに、はるかであった。
「もう、源氏は島にもおるまい」
十郎行家から聞かされていた何かを思い出されたらしい。じっと、ながめておいでになる。まるでうつろかのような顔つきだが、そうしながらも、手の指は、笛袋の笛を取り出しておられた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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